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市川沙央「ハンチバック」のラストを考えてみる

一筋縄ではいかない、すごい小説を読んでしまった。

タイトルのハンチバック。
読み進めるまでその意味が分からなかった。知らなかった。
途中出てくる「せむし」という単語にルビとして添えられていたのが「ハンチバック」という単語。
なるほど、せむし、を意味するんだ。

「ノートルダムのせむし男」という映画の原題を調べてみたら、
The Hunchback of Notre Dameとあった。


主人公の釈華は、筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側彎症という病気で、背骨がS字に湾曲している。その状態を自ら「せむし ハンチバック」と称している。
釈華いわく、遺伝子エラーで筋肉の設計図が間違っているということだ。


人工呼吸器を使い、電動車椅子当事者の釈華は、グループホームで暮らす。
しかしお金にはまったく困っていない。両親が遺した財産で暮らし、グループホームも自らの所有で、現金資産も億単位であるという。
ただひとつ、ハンチバックなのだ。


釈華は、風俗記事を書くバイトをしている。ネットで拾い集めた情報をつなぎ合わせ、ハプバでの3P体験記やナンパスポット20選やらのこたつ記事を書いている。


それと同時に、裏アカで
<妊娠と中絶がしてみたい><私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう><普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です>などと呟いている。
ハンチバックの彼女がけっして体験できないであろうことを呟いている。


作者の市川沙央さんが「好書好日」のインタビューに答えている。
彼女自身も、主人公と同じ病気だ。


だから、日々グループホームでの生活の描写や、人工呼吸器での痰吸引の様子、おそらく彼女の身体に繋がれている様々な医療器具の描写などは、正確な想像は出来なくともかなりリアルなものだと思う。


作者自身と物語の登場人物を同一視しちゃいけない。いちゃいけないと思いながらも、やはり心の奥底では、小説内の釈華のように、妊娠したい、子どもを宿りたい、と夢想しているんだろうなとどうしても考えてしまう。

文学に挑むってことは、こうした自身を冷静に分析し、客観視して言葉として紡いでいく覚悟と潔さも必要なんだろうなと思ってしまう。

誤解を恐れず言えば、こうした当事者の描く物語はずるいかもしれない。描写はもちろん、当事者である心の揺れは、非当事者には到底かなわないものだからだ。
でも、そのずるさを超える、文章や構成の巧みさが「ハンチバック」にはあって、だからこそ、響いてくる。


文學界には受賞に対する選評が載っている。5人の選評者は、「ハンチバック」のラストの展開に言及している。
わかりにくい。未消化。意図が不明。などなど。


たしかに、ラストの展開は唐突で、いきなり語り手が変わってしまう。最初読んだときにはよく分からなかった。でも、どうなんだろう、どういうことだろう、二度三度と読み返そうという気持ちにさせる、不可思議な力強さがあった。


おそらく、おそらくだけど、この物語の本当の主人公は、ラストのみに登場する風俗嬢、紗花、なのかもしれない。

紗花が語り手となるシークエンス以前は、三人称で釈華は、と語られ、ラストは一人称に変わり、私は、となる。
ラスト以前は、私である紗花の語る、釈華の物語だったのだ。



風俗嬢の紗花は、客にどうしてこの仕事しているの、と聞かれ、身の上を話す。
お兄ちゃんが女の人を殺しちゃった。
介護士の資格を取って、グループホームの利用者の女の人を殺しちゃった、と。
(お兄ちゃんらしき人は前半に登場している)

私こと紗花は語る。


兄が殺した女の人の少し変わった名前と少し変わった病名を今でも覚えている。
彼女の紡ぐ物語が、この社会に彼女を存在させる術であるように。


そして最後、
彼女(釈華)が呟いていた、現実には出来なかった「こと」を「私」がするであろうと、呟いて終わる。



「ハンチバック」は、文学は、難しい。
ほんの些細な文章ひとつのなかに、おそらく縦に横に深く想像を巡らせないと辿り着けない鍵が眠っている。
二度三度読んでも、もしかするとたどり着いていないのかもしれない。この読みは作者の意図とは違うかもしれない。
でも、読み人の数だけ鍵はある。だから、難しいしおもしろい。


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