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上島竜兵さんを本当に押してはいけない時は?〜せきしろさんのとても優しい大喜利を思い出して

ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが亡くなってもう一年か。あのニュースはけっこうショックでした。

「押すなよ!絶対押すなよ!」のお約束ギャグがもう見られないかと思うと寂しいし、かといって他の誰かがあの定番を真似たとしても、やはり上島さんを思い出してしまうから、それはそれでつらい。

ずっと以前、その「押すなよ!」をお題とした大喜利が、たしかウェブ上で展開されていました。


お題は、<上島さんを本当に押してはいけない時は?>です。

いくつも答えがあがっています。

上島さんの前に花壇がある時。
上島さんの前をカルガモの親子が横断している時。
上島さんが溶鉱炉の前に立っている時。
上島さんが宇宙空間にいる時。
などです。

どれも「押す」ことによって上島さんの前にあるものが良くない影響を受けたり、上島さん自身が危険にさらされたりする答えです。


そんななか、
作家で俳人のせきしろさんの答えがとてもステキでした。

上島さんの背後に立ち、背中に添えた手に小さな力を預け、ゆっくりと押し出す光景を思い浮かべながら、その答えに触れてください。

せきしろさんの答えは、










上島さんがひとりでもう自転車に乗れるようになった時。






背中を押す、という行為をまったく異なるアングルから見つめたその眼差しはとても優しくに満ちていて、おもわずほわっと微笑んでしまいます。

振り向いて誰も背中を押していない様子に気づき、「乗れた!乗れたぞ!」と大声ではしゃぐ上島竜兵さんの笑顔さえ浮かんできます。

でも、上島さんのことだから、途中でわざと転び、「クルリンパ」なんて周囲を和ませてくれるんだろうな。

熱湯風呂の定番もいいけれど、もう二度と見られないけれど、
この「本当に押してはいけない」パターンを見てみたかったなぁ、と、なぜか突然思う今日このごろです。


そういえば言語学者の川添愛さんが「言語学バーリ・トゥード」のなかで、「意味」と「意図」について書いていた。

上島さんの「絶対押すなよ」という言葉が持つ「意味」と、その言葉に込められた「意図」は正反対で、「押すなよ」が、「押せよ」という合図にもなっている、と。


他に、意味と意図が異なる例としてこんなのをあげていました。

(うろ覚えですが)
ある女性が遠くに住む義理の母からメッセージを貰います。
メッセージの文面はこうです。

『裏の山の紅葉がきれいだからお弁当持って明後日行こうと思います』

女性は、義母に、
『いいですね。気をつけて行ってきてください』と返信をしました。

なんの問題もありません。優しいメッセージです。

でも、文面の意味と義母の意図は異なっていたのです。

後で知ったところによると
義母からのメッセージは<たまにはこっちに来なよ>だったとか。

そんなの分かるわけがない。

「意味」と「意図」が異なるメッセージはそこらじゅうにあります。
以心伝心とか阿吽の呼吸とか、日本人、とくに高齢の方は、ときにそんな手を繰り出してくるから困りもんです。

だいたい分かるだろ。そのぐらいは読み取れよ。
と、大体において意図を汲み取れなかった側が責められてしまいます。
読み取れなかった責任を押し付けられてしまいます。


あれですね、この「意味」と「意図」の違いの、もっとも厄介で、不可解で、撲滅すべきものが、「忖度」ってやつなのかもしれない。

どこかの偉い人が腕を組み顔をしかめ、「如何なものか」と呟くと、周辺にかしずく人たちは右往左往します。

おい、どういう意味だ?
どうすべきだ?
手を打っておくべきか?

で、「如何なものか」に答えようと動いた結果、それが明るみになったら、偉い人は決まってこう言うのです。

「おれはそんな指示はしていない」

あーあ。

「絶対に押すなよ」
どぼーん!ワハハハハ。
ならいいけど、みなさんちゃんとはっきりと言ってくださいね。

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