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私の「美」(3) 「崩れた土塀」

 壊れたものや古いものならなんでも「良い」という偏った趣味人的な気質はさらさらありません。ただ、古い町の路地を歩いていて崩れた土塀に出逢うと、何故だか心惹かれてしまいます。その「良いなぁ」という感覚を読み取ろうとしても、なかなか言葉にしずらいのですが、「崩壊の美」的なものでないことは確かです。
 ここに掲げた写真の土塀は、奈良の新薬師寺あたりの路地を歩いていたときに出逢ったものです。2019年の2月末の平日に訪れた奈良は観光客もまばらで、冬でも春でもない曖昧な気候でした。新薬師寺の十二神将を観た帰り、冬のダウンコートを脱ぎ両手に抱え歩いていたとき、どうやら道を間違えたらしく古い土塀が続く小道に迷いこみ、そこに現れたのがこの崩れた土塀でした。
 いまでも、あの瞬間を覚えています。「突然現れた」というのが、どうやら重要なのだと思います。予定調和ではなく「突然現れた」驚きです。
 ヒトは予定調和で生きていますが、何も考えず(「たぶんこうなるであろう」と無意識で考えることもなく)にいるときに、日常生活にはないもの、しかも、美しく手入れされたものではなく、歴史を孕んだままの風景に出逢うと、素直に驚きます。アリストテレスが「詩学(ポエティカ)」で、驚きこそ創造力の源泉だと語ったように、そこには、予定調和のない驚きがあります。
 古都である奈良は、観光客のために寺院の保存に力を入れておられます。私が奈良を訪れたときは興福寺が大規模修繕工事中だったかと思います。千数百年前からの寺院を大切に保存するのは並大抵のことではないと思いますが、一方で時間とともに人知れず朽ちるものもまた、時の経過を教えてくれる大切な一面だと思っています。その「人知れず」感、予定調和では出逢えぬ朽ちたもの感を、私は「美」としてとらえているようです。
 この朽ちた土塀について、歴史書で記述する人がいるわけがありませんが、その土塊(くれ)に、私は歴史を感じます。中嶋雷太

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