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プロダクション・ノオトー「メタバース編」(12)

 前項では、「メタバース社会を0から作庭するときに大切なのは、①視覚的な凸凹はどのようであるべきか、そして②提供される様々なサービス(ここではコンテンツ)の視覚的なものの裏側にあるべき凸凹のようなものはどのようであるべきか、この2点だと思っています」と綴りました。
 さて、今回は②について考えたいと思います。
 2000年ごろからwwwの世界観は一気に広がり、スマートフォンやPCというメディアがwwwのドアとなりました。けれど、おおむね、スクロールする絵巻物か紙芝居的な見せ方のまま、現在に至るのかなと思います。もちろん、YouTubeやTikTokなどで動画も無数に見られますが、その情報の接し方は絵巻物や紙芝居的であるのは否めません。その舞台には残念ながら凸凹感はなく、ある種、プラスチック容器が無数にあり、それぞれのプラスチック容器ごとに動画や情報がパックされているようにも見えます。
 前項で作庭師の話を綴りましたが、つるりんとした地勢の上に、プラスチック容器に入った情報や動画などがあり、それを選択して楽しんでいるのが現状だと思っています。それらは、送り手と受け手の、コンピュータ上の容量であったり演算能力の限界や通信能力の限界からだと推察され、仕方ないわけですが。
 ここで危惧するのは、5Gや6Gという機能性を今後背景にするにも関わらず、これまでのwwwでの機能的な限界の下で提供されたコンテンツ作りを、そのまま当てこめる方々が数多くいると、せっかくのメタバース空間は陳腐なものになると思っています。そして、プラスチック容器に入った情報や動画が素早く手に入るだけの話でしかなくなります。
 ここで整理しておくと、魅力的な空間とは、煌びやかとか有名なアイコンがあるという議論の前に、凸凹した地勢があるか否か、そしてそこで提供されるコンテンツが、単純な絵巻物だったり紙芝居的な情報や動画か否かが重要だということです。
 さて、「②提供される様々なサービス(ここではコンテンツ)の視覚的なものの裏側にあるべき凸凹のようなものはどのようであるべきか」ですが、大前提で語るべきなのは、大規模商業施設のような「つるりん」としたものではつまらないと思っています。デカルト的なx軸とy軸とz軸で設計された空間(庭の下の地勢)、三つの平面の組み合わせではないものです。なかなかコンテンツ自体の話にならずに申し訳ないのですが、私は、この空間(庭)の凸凹も併せて、そこにあるコンテンツを楽しむものだと考えています。例えば、映画。映画というフィルムだけの話ではなく、映画を観る行為自体がとても大切だと思っています。友達とどの映画を見に行くかをLINEで連絡しあい、映画チケットを事前購入し、日時を決めて友達と待ち合わせし、映画館に行く。映画館でポップコーンやコーラなどを買って席に座り、映画の予告編のあと、ドキドキしながら本編を観る。観終わったあと、友達と居酒屋に行き、映画の話を交わす。そして帰宅してからも、一人で映画のことをあれこれ考える…。映画というメディア体験は、映画というフィルム自体ではなく、この一つの過程全体での体験なはずです。次回では、コンテンツが提供される空間(庭)の話に移ります。中嶋雷太

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