見出し画像

メタバース・クリエイティブ・ノオト(4)

 「山水に得失はなし、得失は人の心にあり」これは、京都にある天龍寺の開山夢窓国師が「夢中問答集」に残した言葉で、私の好きな言葉です。愛着や是非得失の分別心を離れて、あるがままの山水に無心に接して、山水の四季折々に移り変わる景色を禅の修行の手立てとし、真実の自己を究めることを諭されています。
 この言葉に出会ったとき、サルトルとボーボワールの話が浮かんできました。パリのとあるカフェで、二人は一杯のコップの水を見つめています。喉が渇いているサルトル。喉は渇いていないボーボワール。同じ一杯のコップの水ですが、異なる二つの人間にとっては、まったく異なる意味をもちます。自分が抱えている異なる意味や価値観を一度すべて消し去って見ることの大切さを示唆した逸話だったかと思います。この考え方が、現象学哲学者エトムント・フッサールが提唱した「現象学的還元(phänomenologischen reduktion)」の解釈に遡りました。
 大まかには、1340年代の夢窓疎石、1900年代のフッサール、そして1950年代のサルトルやボーボワールへと流れるこの考え方は、2020年代に生きている私にも大きな影響を与えています。
 いつものことながら、冒頭の話が長くなり申し訳ないのですが、メタバースでのクリエイティブを考えるに、この考え方(ここでは「価値感消去/無心化」としておきます)はとても有効だと考えています。
 これまで綴ってきたように、これまで慣れてきた二次元の世界観でのクリエイティブをそのままメタバースのなかに押し込んでしまうと、せっかくのメタバースの世界観は、厳しい消費者(観客)から忌み嫌われるだろうと思われ、さらにメタバースであるべき意義などなく、場合によりメタバースの世界観を殺してしまう毒になり得ると考えています。
 なので、この「価値観消去/無心化」を徹底した方が良いかと思っています。
 さて、この「価値観消去/無心化」をしたとして、目の前には、メタバースという無限の地平が存在しています。その地平に身を置くクリエイターは、呆然とたたずむかと思いますが、ここでヒントとなるのが、先に綴った夢窓疎石の禅庭作りです。夢窓疎石は作庭師として、天龍寺や西芳寺(通称、苔寺)などを作庭した禅僧でもあります。禅庭の表面的な造形も美しいものですが、その背景、つまり禅庭の表面にある岩や石、樹木を取り払った地勢に、「価値観消去/無心化」した身を委ねることからメタバースでのクリエイティブのあり方があると思っています。
 これまでのやり方をゴリゴリとメタバースの世界観に押しこめる暴挙で、メタバースの世界観を殺さぬ一つの手立てです。さて、次回は、作庭師の視点からクリエイティブのあり方を探っていきたいと思います。中嶋雷太

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?