見出し画像

本に愛される人になりたい(71) アラン・シリトー「長距離走者の孤独」

 アラン・シリトーの「長距離走者の孤独」は、私の読書歴のなかでも重要な位置を占めている小説の一つです。
 この作品に出会ったのは高校三年生の夏でした。現代のように社会福祉など充実しておらず、極度の認知症を患った祖母を父母と姉の一家総出で介護していた夏でした。高齢者の認知症もようやく知られ始めたころでした。おそらくきっかけは有吉佐和子さんの『恍惚の人』(1972年)だと思います。新潮社から発行された同書は広く読まれ森繁久彌さんが主人公の映画も公開されました。こうして認知症らしき疾病があることは広く知られてきましたが、それはまだ他人事であり、現実に我が家で祖母の介護を行うとは考えも及びませんでした。学校から自宅に帰ると祖母がおらず分けが分からなくなった祖母が彷徨していたり、食事を終えたのに「食べてない」と発言したり…。家族の誰もが精神的に疲れ果てており、私も翌年の受験の準備など考える余地のない日々を送っていました。高校生の誰もが陥るとは言えませんが、その十代特有の苛立ちは心に大小様々な棘をはらんでいて、「家」にいることの息苦しさを紛らわそうと、深夜バイクにまたがり蒸し暑い京都の街を走っていました。
 その夏に出会ったのが、この「長距離走者の孤独」でした。近くの本屋さんで文庫本を買ったのですが、何故買ったのか、そのきっかけは記憶にはありません。精神的な飢餓感とでもいうものがいつも私の心のなかにあります。その質は異なるものの現在でも私の心のなかにヒリヒリとしてあります。その高校三年生の夏の飢餓感が、この作品を呼び寄せたような感覚が残っています。
 主人公の不良少年スミスは、パン屋荒らしをして感化院に入ります。やがて長距離走者としての能力に目覚めたスミスは感化院の代表として陸上競技大会に出場します。その結末はお読み頂くとして、院長や周囲の大人たちの思惑に決然と反抗する不良少年スミスに私の飢餓感が大きく共鳴し心が打ち震えました。あれは何だったのか…。つじつま合わせの為に嘘の言葉を大量に編みだし美しく繋げて語るのは私の趣味ではありませんので、そうした似非な語り口から抜け出て、あのときの生な感覚を掘り起こしてみると、やはり「私の飢餓感が共鳴し心が打ち震えた」としか言いようがありません。(国語の先生からすれば読書感想文は0点でしょうね)
 その後、齢を重ねるにつれ、書棚からたまに抜き出してはこの作品を読むのですが、私の心の飢餓感の形が変貌を遂げているのがよく分かり、その時々の私の心の飢餓感に訴えてくるものがその都度異なりつつも存在します。
 高校三年生であれば大人社会の汚さへの反抗心とでもいうものでしょうが、二十代、三十代…と齢を重ねていくと、反抗心というよりも反抗心のピュアなあり方を再確認できる喜びのようなものであったり、ときに高校三年生のころの反抗心のようなものがそのままストレートに私の心を揺るがせたりします。
 人生で出会った良き作品を齢を重ねながらもその都度の感覚で楽しむことは幸せに違いありません。この「長距離走者の孤独」はそうした良き作品の一つです。中嶋雷太

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?