本に愛される人になりたい(96) 堀田善衛「インドで考えたこと」
新刊書以外の過去に出版された本を読むときは、特に紀行文といったエッセイ本を読むときは、それがどの時代に書かれたものかを前もって確認することにしています。現在を生きている私が、そのままの感覚で過去に書かれたものを読んでも違和感ばかりが先に立ち、その時代にある場所に身を置いた作者の心象風景を読み解くことが難しくなります。
本書は、堀田善衛さんが「…一九五六年晩秋から五七年の年初にかけて、第一回アジア作家会議に出席するためにインドに滞在したその間に、インドというものにぶつかって私が感じ考え、また感じさせられ考えさせられたことを、別に脈略をつけることなくじかに書きしるしてみたもの…」です。
1956年といえば、朝鮮戦争が停戦となって三年後。まだ池田勇人内閣による所得倍増計画が発表される四年前。海外旅行番組『兼高かおる世界の旅』の放送開始まで三年を待たねばならず、1964年になり日本人の海外渡航がようやく自由化したような時代でしたから、堀田善衛さんのインド滞在記は、日本人の世界観がまったく欠落した時代に綴られたものです。
彼自身は戦時中に中国の上海で国民党の仕事をしていたこともあり、一般的な日本人よりは海外感覚はあったでしょうが、戦後になりインドという国に身を置き、「感じ考え、また感じさせられ考えさせられたこと」を言葉に置き換えるのは大変な作業だったかと思います。
さて、読者の私はどのような読書感想を得たのかです。
実は、この本に初めて出会ったのは高校生のころでした。十代の読者にとっての読書感想は、ただただ堀田善衛という著名な小説家が見て感じただけという感じで、堀田善衛の視線に自分の視線を沿わせることなどまだ不可能でした。自分の視線といっても、社会経験乏しいものでしかなかったので、それは仕方がないことだと思います。
今夏、横尾忠則さんの『インドへ』から妹尾河童さんの『河童が覗いたインド』。そして高峰秀子さんの『旅は道連れガンダーラ』とインド系紀行文の本を数珠繋ぎに読んでいました。「さてと、次は何を読もうか…」と書棚を眺めていて『インドで考えたこと』の背表紙が目に入り手を伸ばしました。
数十年ぶりに読む『インドで考えたこと』には、これまでになく、色々なことを考えさせられました。
1970年代からの海外旅行ブーム以降、インドについても数多くの方が本や雑誌で語られ、インターネット経由でも数秒で情報が入る現代となりましたが、1956年という時代に彼がインドの地に身を置き考える姿は、とても書斎派的なものに見えます。物事をとらえて考える脳みそが日本の自宅の書斎にいるような、とでも良いのでしょうか。かなりの緊張感をもって物事を見据えられていたようです。
とはいえ、その書斎派的な視点であっても、もしくはそうした視点だからこそ、現在につながる深いテーマを掘り起こされています。
「私はインドにいてときどきヒステリー気味になる自分を見出した。その理由はいろいろあるが、そのひとつに自分の知性乃至感性の幅だけではどうにもとらまえきれないほどの広さ、始末におえぬ猥雑さというところまでときとして行くと見受けられる複雑さ、あるいは時間と能率にかかわるもの一切の、どうしようもないよろくささ加減に対する苛立ち、またそれが自分のなかに侵入して来ることのやりきれなさ、そういうものがあったと思う」と語られます。
彼の言葉を借りると、日本はアジアを切り離し西洋的な思考でアジアをとらまえた近代史があり、それは1956年のインドに身を置くことで、さらに明らかにされます。
「アジア大陸からはなれた島にいて、われわれはよほどわれわれにとってちょうど都合のいい工合の、短編小説的というよりは、周辺のボヤケタ随筆的な限定のなかに住んでいるのであるらしい。従って、われわれは、百も千もわかりきったことだが、海外に対して無限の憧れと期待を持つ。しかし、そういうわれわれが、またわれわれの文化、知性、感性が、アジア大陸から見てどういうものに見えるかという、われわれ自身の姿とかたちが、どうにもうまい工合に私にはつかめないのである。われわれがやっているつもりでいること、われわれが判断したと思っているその判断が、外の眼から見てどういうものとしてうつっているか。これが的確に把握出来ないとなれば、いまでもわれわれはわれわれ自身とさえしっくり行きはしないであろう。」
この言葉からおよそ70年経った現在ですが、彼の危惧はまだまだ深まるばかりではないかと考える私がいます。「短編小説的というよりは、周辺のボヤケタ随筆的な限定のなかに住んでいるのであるらしい」感は、私たちの無意識の奥に根強く張りついていて、こんなにインターネットが普及し自由に海外の情報を得られるようになり、自由に海外渡航もできるにも関わらず、この閉塞感は深まるばかりです。
「もし私が、インドなんぞではなくて、日本の普通のインテリ旅行者のように、まっしぐらにヨーロッパへと行ったのであったなら、これほどまでに悩ましい思いをしなかったろう。」と最後の章で語られる堀田善衛さんですが、このインド滞在の1956年からおよそ20年後の1977年のこと。スペインに430日滞在され、その日々を日記的に綴られた『スペイン430日』を読むと、彼が抱えていた閉所感が明るく開放されているような気がします。
そして、われわれです。
まもなくGDPで日本を追い抜き国際政治上で発言力を増していくインドが立ち現れてきました。インドのダイナミズム、そして自身が長年抱える閉塞感から目を逸らし、「私は優しいのだ」と自己妄想に陥る日本。これからの時代、どうなるのやら。中嶋雷太
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