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私の「美」(10)「ガラス製の手水鉢」

 九十九里へよく通っていたとき、浜辺に行く途中に大きなガラス工場があり、代が変わったのか、その工場敷地内にお洒落な工房や、それに併設したショップやカフェがあり、時間があれば立ち寄るようになりました。
 高校生のころは工場好きで、旋盤、フライス盤、鋳造や鍛造に興味があり、ちょっとした作業ならできるようになっていました。こうした町工場が好きになった理由は、ひとつには原材料から何かの部品が作られていくというのが、とても魅力的だったのと、工場独特の機械油が溶け込んだ情景もあったのかと思います。
 ちなみに、環境さえ許せば、自宅の庭にガレージと簡単な工場を持ちたいと思っていますが、世田谷区では無理難題だと諦めています。
 このガラス工場ですが、敷地は広く(東京ドーム半個ぐらいか?)、数キロ先にある海からの潮が感じられ、町工場とはまた違った趣があります。
 ガラス工場なので、ショップには、その工場で作られたガラス製品がおもに並んでいます。いずれもデザイン重視で、なかなかおしゃれなのですが、価格は少々お高い設定で、これまでは、箸置きなどの小物しか買ったことがありません。いつの日か、数万円するガラス製のスピーカーを買いたいと目論んでいる私です。
 ここのカフェでアイスコーヒーを頼み、ぼんやりと、初夏の桜の大木を眺めるのも楽しみです。
 そして、トイレ。
 工場にありそうな殺風景なトイレのドアを開け用事を済ませて、手水鉢に向かいますが、そこにあるのが写真の手水鉢です。
 何もかもがデザインで埋め尽くされた「しんどさ」のない、殺風景なトイレにぽつんとあるガラス製の手水鉢に惹かれた私は、手を洗い終わっても、じっと眺めてしまいます。
 工場独特の臭いや情景は、そのまま殺風景なものですが、そこには殺風景の「美」があり、そこに鎮座するように手水鉢の「美」があります。
 何もかもがデザインされ尽くした空間には、そもそも情景という感じは抱けず、ただただ圧迫感しかありません。私が感じる情景とは、何でもない、人の汗や機械油や潮の臭いがこびりついた凸凹したものです。そして、その凸凹した情景に、ぽつんと現れる粋なデザインに心惹かれてしまいます。
 ガラス製の手水鉢を、私の(夢のなかなかにある)工房のトイレに、設置したいと願っています。ま、来世になりそうですが…。中嶋雷太

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