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プレ・プロダクション・ノオト(1)

小編映画『Kay』(監督:鯨岡弘識)の日本凱旋劇場公開を前にして、フライング的なプロダクション・ノオトを書かせて頂きます。
数週間後からは、正規のプロダクション・ノオトを書かせていただきますが、プレという逃げで、好きなことを書かせていただきます。
最初の風景は、実家のあった京都太秦からにしようかと。十代後半、私の映画の師匠の一人が、大島渚さんの「愛の亡霊」の撮影現場に連れて行ってくれました。京都の大映撮影所のスタジオの入り口には何メートルかの大魔神がのっそりと、埃をかぶり静かに立っていました。
そのころの私といえば、裏の悪でしたが、それは京都でも僅かな人だけが知っていることなので、また別途の物語になります。

さて、「愛の亡霊」は大島渚さんの「愛のコリーダ」の後の作品でしたが、撮影現場は大映京都撮影所の(おそらく)最後の作品になりました。冷ややかなスタジオに入ると、何メートルもある大魔神が寂しそうに立っていたのを今でも覚えています。
任侠映画も廃れ、私の友達の大部屋の役者さんの友達は、卵かけご飯が楽しみだと笑顔だったのを、忘れたくないなぁと思います。亡父が通っていた松竹京都撮影所の裏通りにある「がんこ」という素敵な飲み屋では、荒れる映画人もいたようです。
繁栄していた映画が一挙にダメになり……しかし、ハリウッドの映画は面白い。

そのころ、「金がないから映画が撮れない」という話は、あちこちから耳にしました。

今と違い、スマホなどない1970年代でしたが、金がなくても物語を書けば良いじゃないかと反抗期の私は思い、下手なりに、自分の観たい作りたい映画のロング・シノプシスを書き殴っていました。私もかなり殺伐と荒れていたので、酷いものでしたが。

戦争に行き人を殺して復員兵となり、今でいうPTSDを患っていた亡父は、一円も家に入れず、毎夜、祇園界隈で飲み歩きながらも、たまに「おい、雷太!学校行く前に、図書館の本全部読め!」と叫んでいました。どっちもどっち。金曜日の夜に何十台もバイクが屯する我が家でした。さて、映画熱が冷めかけましたが、やはり、映画が好きなのは変わりませんでした。

毎週何本もの映画を両親とともにテレビで見て、淀川長治さんと同じく、映画は先生だったのかもしれません。

しかし、大学に入ると、沈思黙考した風味、美しく論理的な言葉が、頭が良い子文化ばかりで、太秦の世界とは真逆の世界が待っていました。繊細で細やかで……という自分の心理状況を刻み悩むのが流行りで、田宮虎彦「足摺岬」と真逆のインテリオヤジやオヤジに買われた連中がいて……しかもハリウッド映画が好きだというと軽薄だ的でもあり……。

と、他人を批判することで、自分を保つような日々がありました。

ここまでは、軽いジャブとして、次回からは、少し濃い、カフェラテ的な話をしますね。(続く)中嶋雷太

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