マイ・ライフ・サイエンス(11)「空気を巡るあること2:金魚とカメハメ波」
前回の「空気を巡るあること」で綴りきれなかったのが、金魚とカメハメ波のお話でした。
夜店で金魚すくいをやって家に帰り、小さな金魚鉢で飼っていたとき、毎日眺めていて、魚は水のなかでずっと生活しているのだなという実感が湧いてきました。小学校低学年のころです。それまでにも、地球には海と陸があり、海には魚が泳いでいることを知ってはいましたが、魚が水のなかで生きているという実感は、金魚鉢のなかの金魚が泳ぐ姿を見て得たと思います。
そして、小学生になれば人間などの動物は空気を吸って生きているということも学んでおり、海には魚、陸には人間などの動物が生きていることを至極当然のこととして理解していました。
そんなある日です。
金魚鉢の金魚は水のなかで生活しているならば…と考えついたのが、人間は空気のなかで生活しているということでした。「それは当たり前のことでしょ」と笑われるかもしれませんが、私という人間のこの肌は直接空気に触れているという実感、私は空気のなかにいるという実感です。つまり、人間は、金魚が水のなかにいるように、空気のなかにいるわけです。そんな風に考えていくと、私が手のひらで空気を前に押すと、その押した分の空気は前に移動するはずです。団扇でパタパタすると風がおきますが、それと同じ話です。この団扇の風を私たちは「風」と呼んでいますが、つまり団扇の前の空気を移動させていることになります。そして移動した空気があったところに周りの空気がやってきます。台風などはこの風移動の力がかなり強いわけですね。空気の移動だけでなく、空気自体が匂いや振動を伝える媒体になっているかと思うと、空気のなかで生活をしている実感がさらに湧いてきます。
こんなにも、生きるために大切な空気なのに、何故、空気のなかで生活しているという実感がなかったのだろうと考えたことがあります。あまりにも日常のことなので、そんなことをいちいち考えるわけがないと言われかねませんが。それは、一つには、私たちの意識が視覚優先主義に陥っているからではないかと思われます。本来ならば全感覚器官を使って生きている動物なのに、気づけば視覚を優先する文化を築いてしまったようです。これは中村雄一郎さんの「共通感覚論」という本に以前出合い確信した考えです。多種多様な生き物たちは、もちろん視覚でも物事を捉えますが、生きる為には自分に備わっている全感覚器官を使って生きているのに、人間とは視覚優先主義のようで、空気のことなどまったく二の次で、無視を決め込んでいるようです。
例えば、空気の手触り感というものがきっと備わっているかと思いますが、その感覚は退化したのかもしれません。
かなり昔、アニメの「ドラゴンボール」がテレビで放送されていて、「カメハメ波っ!」と孫悟空が技を出していました。カメハメ波は、亀仙人が編み出した技で、体内エネルギーを凝縮させ一気に放出する技で、主人公の孫悟空の得意技で有名です。
その技を見ていて、「あり得る技だ」と独りごとを漏らしていました。
アニメほどの迫力は当然ありませんが、身体の熱を放出し空気を押すことは可能です。実際にやってみても、なんとなく空気が押され、微かな振動が発生し、わずかな体温の熱が伝わるだけでしょうが、人間が空気のなかで生活しているのだと考えると、微かであっても私のカメハメ波は相手に伝わっているはずです。もちろん修行の足りない私のカメハメ波など相手は何も感じないでしょうが。
大気汚染とか放射能汚染とかが叫ばれ納得はするものの、自分の肌全体に、つまり身体全体が空気のなかにあるという感覚などなく、大気汚染や放射能汚染という言葉を耳にし納得したふりをしているような気がしています。もし、この空気のなかという感覚が鋭敏であったなら、もう少し実感を持って大気汚染や放射能汚染という事態の実感が湧くのでしょうが。
さて、この空気です。
水ならH2Oとはっきりした化学式がありますが、空気の化学式はというと、窒素N₂78%と酸素O₂21%と…というように空気に含まれている分子を羅列しなければなりません。面倒なヤツです。
こんな面倒なヤツですが、たまには、頭の体操として、水のなかで生活する金魚のように、人間は空気のなかで生活しているのだと考えてみても良いかもしれません。そうすれば、いつの日か、強力なカメハメ波を習得できるかもしれません。中嶋雷太
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?