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冷徹社長と秘密の契約結婚〜待っていたのは癒しと溺愛の日々でした〜 第1話【漫画原作部門】


【あらすじ】

小さくて白くて可愛すぎる……これがあの冷徹社長!?
気づけばアラサーとなっていた派遣OLの宮内 音は、社内有望株の彼氏と交際中だった。
しかし彼氏は若い女と浮気をし、その浮気相手からは「負け犬」と嗤われて、人生のどん底に落ちる。
しかしひょんなことから“冷徹社長”と呼ばれる早川 律の秘密を知ることになるのだった。

「俺と結婚してくれないか」

旦那様はポ○○○○ン!?
これはただの契約結婚、そのはずだったのに。
夢のような癒しと溺愛の日々が始まるーーー。

【登場人物】

宮内 音〈みやうち おと〉
主人公・28歳

早川 律〈はやかわ りつ〉
ヒーロー・32歳

荒井 太晴〈あらい たいせい〉
ヒール男・30歳

倉谷レナ〈くらたに れな〉
ヒール女・23歳


【第1話シナリオ】

「俺と結婚してくれないか」

目の前に座る彼は、そう真剣な表情をして私に告げる。
噂通りの、芸能人顔負けなくらい端正な容姿。
まるで全てのものを持ち合わせているような人。

“冷徹社長” 住む世界が違うと思っていた人と、どうしてこんなことにーーー?

「宮内さーん、この資料も急ぎ30部お願い」

男性社員から資料を受け取って、小走りでコピー機に向かう。
資料をセットして印刷にかけたら、またデスクに戻ってやりかけだったデータ入力を再開する。
そのうちに仕上がった資料を社員に渡して、データ入力を終わらせたところで、ふうと息を吐いた。

宮内 音。今年で28歳になるしがない派遣社員だ。
派遣先であるこの会社に勤めて、もうすぐ3年近くになるだろうか。
私の仕事は広告営業の社員のアシスタント。
見積書や企画書の作成、スケジュール管理、商談への同行やその他の雑用全般……やることは多岐にわたる。
私を除いた全員が正社員で、その殆どが男性だ。

以前は同じ仕事をする派遣社員がもう1人いたのだけれど、辞めてしまってからは中々人員補充されず私だけ。
その分仕事はうんと増えて、目まぐるしい忙しさだった。

オフィスの扉が開いて、営業先から戻った社員が入ってくる。

「あ、おかえりなさい太晴さん。契約どうでした?」

「ただいま。ああ、楽勝楽勝。契約とってきたよ」

「さっすがぁ!
今度俺にもコツ教えてくださいよー」

目を輝かせる後輩の言葉を軽く受け流す彼は、荒井 太晴。
部署内で契約数No. 1の稼ぎ頭で、実は社長の甥であることは公然の秘密となっているため、みんなから一目置かれる存在だ。
そんな彼と目が合う。

「宮内さん、コーヒー貰っても良い?」
「あ、はい!」

私は頷いて、淹れたてのホットコーヒーを彼の元に運ぶ。

「ありがとう。……今夜、家来れるよな?」

コーヒーを受け取った彼が、私に囁く。

「う、うん。じゃあ、先に部屋で待ってるね」
私も声をひそめて答えた。

「ああ。じゃあまたあとで」

簡単な会話を終えて、私は席に戻る。

今日は、久しぶりに2人でゆっくりできるかも。

思わず緩む頬。しかし机にできた仕事の山を見て現実に戻される。

……まずはこれをどうにかしなくちゃ。

気合いを入れ直して、私は再び仕事に取り掛かるのだった。


彼―――太晴と私は、恋人同士だ。

太晴は派遣として働き始めた当初から気さくに声をかけてくれて、おかげで私はすぐに職場に馴染むことができた。
歳が同じということもあって、意気投合した私たち。
恋愛には消極的だった私だけど、太晴からの猛アプローチを受けて晴れて付き合うことになった。
派遣に手を出す形になったのを大々的に知られては心象が悪いということで、社内では私たちの関係は秘密。

社長の甥という立場と、整った容姿を持つ太晴は女の子によくモテた。
こんな私でいいのかな?そう不安になることはありつつも、何やかんやお付き合いが続いて2年。
私たちの関係は順調……のはずだった。

「太晴、t社のデータまとめ終わったよ」

「あーうん、じゃあ次こっちね」

仕事が終わって、今は約束通り太晴の家にお邪魔している。
私が声をかけると、太晴はろくにこちらを見ずもせずに次の作業を言い渡してきた。

……今日も結局、こうなっちゃうんだ。

きっかけは、太晴に仕事を手伝って欲しいと頼まれたことだった。
多くの顧客を抱える太晴は、中々業務時間内にデータ収集や提案資料の作成まで手が回らないことも多い。
だからこそアシスタントの出番なのだが、人手が減ってからは私も業務に追われる日々。
派遣にあまり残業はさせられないということで、業務外の時間に個人的な手伝いをして欲しい、と。

多忙な彼氏の役に少しでも立てるなら。そう思って了承してからは、2人で過ごす時にこうして度々手伝いをするようになった。
はじめのうちはそれでも良かった。
太晴は大袈裟なくらいの感謝を伝えてくれていたし、私の協力が太晴の成果に繋がるのだと誇らしく思う気持ちもあった。

けれどいつの間にか、太晴からの感謝の言葉は減っていって、私が手伝うことが当たり前の空気が出来上がっていって。
そもそも最近は仕事以外で会うことも頻度も下がっていて、やっと会えたと思った時は必ずのように仕事の手伝いが待っている。
モヤモヤする気持ちは増えるばかりだ。

作業が終わって、ここからはようやく2人でゆっくり過ごすことができる。

「ねえ太晴」

「……何?」

太晴はどこか面倒くさそうにスマホに落としていた目線をこちらに向ける。

「今度の週末、たまには一緒にどこか出かけない?」

「今週……?
あー悪いパスで。色々と予定入ってんだよね」

誘いはあっさりと断られてしまう。

「……せめてどこか、空いた時間で食事だけでも一緒に行けないかな?
最近、全然デートらしいデートなんてしてないし……」

食い下がる私を見て、太晴は大きくため息を吐いた。

「あのさぁ、俺は毎日忙しくて疲れてんの。
空き時間くらい家でゆっくりしたいって分かんない?」

いかにも迷惑そうなその表情を見たら、もう何も言えなかった。

「……風呂入ってくるわ」

言葉に詰まる私を置いて、太晴はさっさと浴室に向かう。

「……昔はこんなんじゃなかったのにな……」

あなたにとって、私はただの便利屋ですか?

浮かんだ言葉は、喉の奥で声にならずに消えていった。


昨日は太晴の家に泊まったけれど、太晴が冷たくなってしまった理由とかそんなことを考えて中々寝付けなかった。
だから朝起きるのが遅くなって、いつものようにお弁当を作る時間もなかったから、今日は久しぶりに社員食堂での昼食だ。

「ねえ見て!
Gliateの早川社長がニュースに取り上げられてる!」

「あ、本当だ。写真でも相変わらずかっこいい〜」

私の後ろには、他部署の女子社員2人が座っていた。
2人はスマホを覗き込みながら声を弾ませる。

株式会社Gliate。
立ち上げから僅か数年で上場し、右肩上がりに業績を伸ばし続けているIT企業だ。
社長の早川 律はやかわ りつは、まだ30代前半でありながらやり手社長としてその名を馳せている。

早川社長が抜群のスタイルと芸能人顔負けのルックスを持つことも、注目を集める要因のひとつになっているのだろう。
太晴の商談に同行した際に一度だけ、早川社長と会ったことがある。
確かに彼は、今までに会ったどんな人よりも綺麗な顔をしていた。

「こんな人とお近づきになれたらなぁ……彼女とかいるのかな?」

「どうだろ……でもさぁ、私の友だちでGliateで働いてる子がいるのね。
その子曰く、早川社長って社内一の美女に言い寄らせてもぜんっぜん靡かなかったらしいよ。
超仕事人間!って感じで、むしろ浮ついた人にはすごい冷たいんだって」

「えーそうなの!?
女には興味ないって感じなのかな?」

「だからさ、陰では“冷徹社長”なんて呼ばれたりしてるらしい。
まぁ確かに、なんか近づきがたいっていうか、冷たくて怖そうな感じはあるよね」

盛り上がる会話をバックに、注文したうどんをすする。
確かに、美形すぎる人って妙な迫力があるというか、私も対面した時は凄く緊張したのを覚えている。

「そんな冷徹社長の奥さんになれるのは、どんな人なんだろうね」

所詮、私とは住む世界の違う人だ。

気づけば昼休憩の終わりも迫ってきている。
午後からの仕事に間に合うように、私は急いでうどんを食べ進めるのだった。


それは、いつものように仕事を始めようとした朝のことだった。

「えーでは、今日から一緒に仕事をする倉谷くらたにレナさんです。彼女には営業アシスタントとして入ってもらうことになるから」

そう言って課長が紹介したのは、1人の歳若い女の子。
部署内の皆の前に立って、彼女―――倉谷さんはにっこりと微笑んで見せた。

「初めまして、倉谷レナです。
みなさん今日からよろしくお願いしますっ」

「そのうち」と言われ続けていた欠員の補助として、倉谷さんは地方の支社から異動してきたようだ。
私と違って、倉谷さんは正社員。
けれど仕事内容は同じだから、必然的に私が倉谷さんに教えるような形になった。

けれど……倉谷さんは、私の言うことをまるで聞こうとしなかった。
私が仕事の説明をしている時は、つまらなそうに自分のネイルを眺めているばかり。
出来ないことがあれば男性社員の元に行き、教えて欲しいと甘えるように強請る。

「あの……倉谷さん。
同じ仕事をしているのは私だから、分からないところはまず私に聞いてくれませんか?」

そう伝えると、返ってきたのは嘲笑じみた表情と言葉。

「えーだってぇ、宮内さんって派遣さん……ですよね?
派遣さんにわざわざ教えて貰わなきゃいけないことなんて、別にないっていうかぁ……」

彼女は完全に私のことを見下していた。

倉谷さんがやることといえば、例えば男性社員一人ひとりの好みに合わせたお茶出しをして、愛想を振りまくことだった。
23歳と若くていかにも男ウケしそうな愛らしい容姿を持つ倉谷さんに、早くも男性陣はメロメロだった。

「やだぁ、荒井さんってば何言ってるんですかもぉ〜」

そして、一番気になることはだ。

声のする方に目を向ければ、そこにあるのは倉谷さんと太晴の姿。

「冗談だって。何でも信じちゃって、ほんと純粋だなぁ」

「倉谷さんのイジワルっ」

至近距離で楽しそうに会話をする2人。
こんな光景を見るのは、最近ではいつものことだった。

倉谷さんは仕事中、何かと理由をつけては太晴のところに行く。
それで毎度2人は、こうやって仲良さげな様子を見せるのだ。
2人は倉谷さんが支社にいる時から知り合いだったようだけど……それにしたってくっつきすぎじゃない?

秘密にしているけれど一応私は太晴の彼女なわけで、見せられるのは気分が悪い。

そんな私の思いをよそに盛り上がる2人。
その仲睦まじさを見た通りすがりの男性社員が、茶化すように言った。

「お二人さんやけに仲良いっすね〜もしかして、付き合ってたりなんかして!?」

太晴が口を開くより早く、倉谷さんが答える。
その言葉に私は凍りついた。

「えーバレちゃいました?
実はそうなんですぅ。私たち、お付き合いしてまぁす」

「……え……?」

一瞬、意味が理解できなかった。

付き合ってる? 誰が?
……倉谷さんと太晴が?

信じられない思いで、太晴に目を向ける。

「ね、たぁくん?」

「……ああ、実はそうなんだよ。
恥ずかしいからお前らには秘密にしてたけどな」

太晴は否定するどころか、倉谷さんの言葉に頷いてみせた。
私と目が合うと、気まずけにさっと視線を逸らして。

「な……何だよー水くさいな、そういうのは早く教えてくれよー!」

一瞬の沈黙の後、わっとその場が盛り上がる。

何なの……これ。誰か嘘だって言ってよ。

1人状況が飲み込めず呆然とする私を見て、倉谷さんが嬉しそうに嗤っていた。


私の彼氏であるはずの太晴が、倉谷さんと付き合っている。
突然そんなことを言われて納得できるわけもなくて、仕事終わりに私たちは飲食店で話し合いをすることにした。
私の向かいに座る太晴。その隣には当然のように倉谷さんが座っている。

「俺もさぁ、疲れとかストレスがたまってしんどい時があったんだよ。
でもレナがそんな俺を色々と気遣ってくれてさ、こうなったっていうか……」

言葉を濁しながら、ベラベラと言い訳を並べ立てる太晴。

それって結局……「つまり、太晴は私と倉谷さんで二股かけてたってことだよね」

太晴の浮気。頭の片隅で、考えたことがなかったわけじゃない。
でもそんなまさかって、可能性から目を背けていた。

「ごめんなさい、私が悪いんです……!
たぁくんを好きになって、彼女がいるって知っても止められなくって……」

割って入った倉谷さんが、そう言って瞳を潤ませる。

「……レナ……いや、レナは悪くないよ」

太晴はそんな倉谷さんを気遣わしげに見やり、優しく声をかける。

「……何それ……浮気なんて、悪いことに決まってるでしょ……」

思わずそう呟けば、太晴が私に視線を戻した。
倉谷さんに向けていたものとはまるで真逆の表情を浮かべて、ため息混じりに口を開く。

「……そもそもさぁ、音はもう28のアラサーだろ?
それに引き換え俺は、社長の甥っていう立場を持ってて稼ぎ頭で将来有望。
そんな俺と、アラサー派遣のお前。本気でつり合ってると思ってた?」

「な……っ」

私を蔑む瞳。小馬鹿にするようにそう鼻で笑って。

「ここまで付き合ってやったのも感謝して欲しいくらいだわ。
そもそもお前と結婚する気もないんだから、むしろ早めに放流してやるのが優しさだろ?」

太晴の言葉に、耐えきれないように倉谷さんが吹き出した。

「やだぁ、たぁくんってばひどーい」

クスクス。ケラケラ。2人の笑い声が響く。

悪いことをしたのは彼らのはずなのに、どうしてみじめな思いをしなければいけないの?

仮にも2年以上付き合った相手にこんな仕打ちができる太晴も、そんな男と一緒に嘲笑う倉谷さんも、
まるで別の生き物みたいに見えた。

「じゃ、そういうことだから」

言いたいことを言って満足した2人が、連れ立って店を出ていく。

「……ぅ……っ」

悲しくて悔しくて涙が溢れる。
止まらない涙に震える体。

私は1人、その場から動けないままだった。


どんなに辛いことがあったって、また朝はやってくる。
泣き腫らした目は腫れていて、ブルーライトカット入りの伊達メガネをかけることで誤魔化すことにした。

2人の顔なんてもう見たくもない。
でも、仕事を放り出すわけにもいけなくて、重い体を引きずりながら出社する。

太晴と倉谷さんは、何でもないような顔をして会社に来ていた。
それどころか部内公認の仲になったからか、これまで以上にベッタリとくっ付いている始末だ。

そんな2人の姿が目に入ると、込み上げるのは憎しみと怒りばかり。
こんな状態で仕事をしなければならないのは、ただの地獄だった。

地獄のような環境で働くことは、ストレスでしかなかった。
見たくなくとも2人の姿が目に入ってしまう。
食欲はなくなって、いつもキリキリと胃が痛む。

それでも逃げたと思われることは悔しくて、歯を食いしばるように毎日出社していた。

―――けれど。

「契約終了……ですか?」

ある日課長から呼び出されたかと思うと、告げられたのは派遣契約の終了だった。

「ああ……急なことで悪いが、今月いっぱいで終了とさせて欲しい」

それはつまり、今後の更新はされないということ。

「……でも、契約期間はまだありますよね?」

以前契約を更新した際には、期間は来月までとなっていたはずだ。
私の問いかけに対して、課長は言いづらそうに口を開いた。

「それはそうなんだが……ほら、倉谷さんも来てくれて今は人手が足りているわけだし……。
それに、言い難いことだが宮内さんの勤務態度は継続に値しない……という話も出ているんだ」

「……勤務態度……?
……私の、何が問題だったのでしょうか……?」

「……その、君が倉谷さんに対して辛く当たったり物を隠したり、様々な嫌がらせをしている、と」

「嫌がらせ……!?
私、そんなことしてません……!」

本当に身に覚えのないことだった。
確かに彼女のことを憎いと思う気持ちはある。
けれど私は、嫌がらせなんて卑劣な真似はしない。

「うん……君がそんなことをするような人じゃないことは私も分かってる。
でも、宮内さんの契約終了を要望しているのは荒井くんなんだよ……だからほら……ね?」

“分かるだろ?”言外にそう訴えてくる課長。

社長の子は娘しかいないため次の社長になるのではという噂もあり、それでなくとも
将来的に上の立場になることがほぼ必然の太晴だ。
そんな太晴には、課長も何かと気を使うのだろう。
そのために、ただの派遣社員を切り捨てることなど造作もない。

それにしたって、なんていう仕打ちだろうか。

新彼女がいる職場に、元彼女の存在は邪魔でしかなかった?
だから倉谷さんとグルになって、ありもしない“嫌がらせ”をでっち上げてまで私を排除しようとする。

どうして私は、こんな最低男のことが好きだったんだろう。

「例え辞めても、給料の方は来月分まで振り込むようにするからさ……どうか穏便に頼むよ」

そもそも私がずっとここで派遣社員を続けていたのだって、将来のために転職を考えていた私に太晴が
「3年頑張ってくれれば俺が正社員として推薦してやる」と言ってくれたからだったのに。

……まあもうどうだっていい。
どうせ何を言ったって、この決定は覆らない。
私は心身ともに疲れ果てていて、争う気力も湧かなかった。

太晴と倉谷さん……諸悪の根源である2人の姿をもう見なくて済む。
それを嬉しいとさえ思う。

「……分かりました」

私は課長の言葉に力無く頷くのだった。


そして勤務最終日。
仕事を終えた私は、持ち帰りの荷物をまとめ始める。

「宮内さぁん」

そんな私の元に、倉谷さんが近づいてきた。
……この後に及んで何の用?

「今日までお疲れさまでしたぁ」

倉谷さんはそうにっこりと笑いかけてくる。
そして、私の耳元で囁いた。

「なんかごめんね?
仕事も彼氏も奪うみたいになっちゃって♡」

悪いなんて1ミリも思ってない口調だった。

「やっぱり、元カノにちょろちょろされるのって目障りでしかなかったからぁ……これでようやくスッキリできそう!
あ、仕事の方も心配しなくていいですよ。派遣にできてたような仕事なら私にもすぐこなせると思うのでぇ」

「……そうですか」

これまでの人生の中で、ここまで性根が腐った人間に会うのは初めてだった。
こんな人と、言い争うだけ無駄だ。

まとめ終わった荷物を持って私は立ち上がる。
そんな私に向かって、また倉谷さんが囁いた。

「さようなら、負け犬さん」

仕事を辞めてからは、ただ無気力に過ごす日々だった。
相変わらず食欲は沸かなくて、ここ最近で体重もかなり減った。

「……可愛いなぁ……」

起き上がる気力もなくてベッドに横になったまま、スマホで動物の動画を見る。
動物は全般好きだ。その中でも特に好きなのは犬。
昔おばあちゃんの家ではのりまきという名前の犬を飼っていて、おばあちゃんっ子だった私は
よく一緒に散歩に行ったり遊んだりしていた。

だから大人になってからも、犬を飼いたいと常に思っていた。
けれど薄給の1人暮らしの私では飼う資格が足りないんじゃないか。
そう思うと飼うまでには至らなかった。
それに、太晴は犬が嫌いだったしな……つい太晴のことを思い出すと、同時に倉谷さんの顔も浮かんできて。
早く忘れてしまいたいのに。どうしても気分が沈む。

動画を閉じたところで、そういえば朝から何も食べていないことを思い出して、私はノロノロとベッドから這い出た。

「……さすがにそろそろ、買い物行くか……」

近所のスーパーに行って帰る頃には、すっかり日が落ちて辺り一面が夕闇となっていた。
少し前まで降っていた雨はもう止んで、しめったままの帰り道を歩く。

何か……聞こえる……?

レジ袋を片手に自宅アパートまで戻ってきたところで、何やら音がすることに気づく。
耳を澄ませれば、それはか細い鳴き声のようだった。

出所を探りながら歩くと、マンション入り口の植え込みの裏に、1匹の生き物らしきものが丸まっているのを見つけた。
濡れた毛並みに小さな身体。よく見ればそれはポメラニアンだった。
私は慌てて駆け寄って、そばにしゃがみこむ。

「なんでこんなところに……迷子の子かな……?」

私の存在に気づいたポメラニアンは、警戒するように唸り声を上げる。
しかしその声はとても弱々しくて。
濡れた毛並みが張り付く身体は、凍えるように震えていた。

きっと先程までの雨に打たれたのだろう。
今の季節は冷え込みも厳しい。
目の前のポメラニアンは見るからに弱っていて、このままではきっと悪化していく一方だ。
とにかく早く温めてあげないと……!

私はポメラニアンに向かって手を差し出した。
ポメラニアンは尚も警戒を続け、私の手に向かって吠える。

「大丈夫。私は絶対に、あなたに酷いことはしない。
ほら……外は寒いでしょう?
……おいで」

少しで想いが届くように、ポメラニアンと目を合わせながら語りかける。
その大きな瞳でじっと私を見つめたポメラニアンは、キュウンと小さく鳴いた後
そろそろとこちらに近づいてきた。

私はそんなポメラニアンをそっと抱き上げる。
濡れた身体は予想通りとても冷たい。

早く帰ろうと焦る私の服にポメラニアンが噛みつき、クイクイと引っ張る。
ポメラニアンが指し示すのは茂みの方だった。
目を凝らすと、奥の方に隠れるように男性のスーツ一式とビジネスバッグが置かれていた。

「なんでこんなところに……?」

ポメラニアンがキャンキャンと吠えて、また私の服を引っ張る。

「これを一緒に持っていきたいの?」

尋ねれば頷いたように見えて。

「もしかしたら飼い主さんのものかもしれないし……よし分かった」

それにしても、これを着ていた人はどこに行ってしまったんだろう……?

疑問は残るけれど、とにかく目の前のこの子のことが先決だ。
ポメラニアンとスーツと鞄を抱え、私は急ぎ足で部屋へと向かうのだった。


部屋に入ると、すぐにタオルでポメラニアンの身体を拭く。
大体の水気をとった後は、ドライヤーで乾かすことにする。
熱すぎないように気をつけながら熱風を当てていくと、本来の白くてふわふわな毛並みが戻ってきた。

「よし……こんなものかな?
これでおしまいだよ、いい子だったねぇ。
もう寒くないかな?」

ドライヤーが終わるまで、ポメラニアンはじっと大人しくしていた。
私の声に顔を上げると、まるで言葉を理解しているみたいに一声鳴いた。

それにしても……「かぁわいいなあ……」

まるで綿飴みたいにふわっふわな毛並み、ポテっとした小さな身体、つぶらな瞳。
改めて見るポメラニアンは、まさに破壊級の可愛さだった。

やっぱり誰かに飼われている子だろうか。
それなら今頃この子を探しているひとがいるかもしれない。
飼い主に関わる情報がないか、後であの鞄の中を見させてもらわないと。

「よかったら……撫ででもいいかな?」

そっと頭に手を置いても、ポメラニアンが嫌がる様子はなかった。
そのままゆっくりと手のひらで撫でる。

「……かわいいねぇ、いい子だねぇ……」

耳の後ろを優しく撫でると、ポメラニアンは気持ちよさそうに目を細める。
のりまきも、ここを撫でられるのが好きだったな。
懐かしさを感じながら、短毛ののりまきにはなかったふわふわ感を堪能する。

私のおばあちゃんは、どんな犬もメロメロにしてしまうゴッドハンドを持っていた。
そのおばあちゃんの撫で方を見て覚えてきた私も、そこそこの腕前を持っていると自負している。
今日までは、その腕前を発揮する機会もそうそうなかった訳だけれど。

耳を後ろに寝かせながら、私に撫でられるポメラニアン。
撫でるのをやめるとつぶらな瞳が「もうおしまい?」というようにこちらを見つめて。

「本当にかわいい……かわいいねぇ……かわいすぎるよ……っ」

もはや私の語彙は可愛いしかなくなってしまった。
やがてポメラニアンがコロンと転がりお腹を見せてくれる。

「あああもう……こんなに小さいのに生きててえらい!
存在が天使!」

目の前の生き物が愛おしくてしょうがなくて、感情のままに愛でる。
この瞬間だけは、今までの嫌なこと全てを忘れることができた。

「あ……」

気づくとポメラニアンは目を閉じて眠りに落ちていた。
その寝顔の可愛さに私はまた悶える。

固い床よりは柔らかいところがいいだろうと、私はベッドにブランケットをおいて、その上にそっと
抱き上げたポメラニアンを乗せる。そして私もその隣に転がった。
気持ちよさそうな寝顔を見ていると、段々私まで眠くなってくる。

昨日も中々寝付けなかったからな……でも、鞄の中身を確認しないと。
その前に、少しだけ一休み……。

気づけば私の意識も、夢の中へと落ちていった。


ぼんやりと意識が浮上し、まだ重い瞼を開ける。
そばに見えたのはふわふわな白い毛並み。

「……あなたも起きた、の……!?」

声をかけた瞬間、“ポン!”と何かが弾けるような音がして思わず目をつむる。
次に目を開けた時には、もう可愛いポメラニアンはそこにいなかった。

「……え……?」

代わりにそこにいたのは、全裸の男。

身体が起こす私と、男と目が合う。
それはどこかで見覚えのある……そう、巷で噂の冷徹社長こと早川 律は、こんな顔をしていた気がする。
しかし、私は思考も身体も完全にフリーズしていた。

ナンデ、イエニゼンラノオトコガ?

男はベッドのそばに置いてあったスーツに手早く着替え、鞄を持つ。

「……すまない、世話になった。
この礼はあとで必ず」

そして、未だフリーズを続ける私に一礼すると、足早に部屋を出ていった。

「……え?え?え?」

そんな男の後ろ姿を見送って、数秒。

「えええええええー!?」

ようやく意識を取り戻した私の叫び声が、部屋中に響き渡るのだった。


#創作大賞2024
#漫画原作部門
#女性向け


表紙文字:かんたん表紙メーカー様より
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表紙素材:かなめ様
小説用フリー素材からお借りしました



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