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人にはそれぞれ自分の世界がある。その中にいるときほど心地よいものはないのだなぁと思ったのだった。

よく覚えていないのだが、その日のすべての野良仕事の終わりを告げる板木の音は、私の耳には入らなかったのだと思う。

見よう見まね、夢中で鍬をふるっていた私は、ふと顔を上げるとメンバーがぞろぞろと屋敷の方向へ引き上げて行くのが目に入った。おそらく誰かに声を掛けられたのだとも思うが、何が何やらわからないままに重い身体を引きずるようにして、後に続いた。

ちなみに板木とは叩いて合図するための板である。アラヤシキの2階に取り付けられており、3度の食事と2度のおやつ休憩の際に野良仕事をしているメンバーに時刻を知らせるために打ち鳴らす。広大な敷地の隅々まで聞こえるその乾いた木の音を、今でも鮮明に思い出せるし、大好きだった。

鍬を倉庫に片づけ、アラヤシキの玄関に入ると、まず向かって左側にある洗面所(学校のように4,5個蛇口のついている大きなもの)で手を洗い、炊事場を通って隣の部屋に入る。そこは居間で長机が置いてあり、机にはお茶碗やお椀や箸が人数分、伏せて置いてあった。

場所は特に決まっていないと聞き、私は適当な場所に一度落ち着いた。メンバーはそれぞれ、無言で食事の支度をしている。

ひとり緊張しながらここでも見よう見まねで動いていく。

ごはん、おつゆを各自よそい、席に着くと静かに全員が着席するまで待っている。私が訪問した時は9人のメンバーがいた。

全員が着席すると、その日の当番であるエノさんが「黙祷」と声をかけ、食事の前の祈りをする。再びエノさんが「いただきます」と言うと、それが食事開始の合図。みな物凄い勢いで食事を始める。

私はとても食が細かったので、正直その食事の多さに驚いた。そしてみんなの食べる勢いにも。何とか無理やり詰め込んだが、やはり一番時間がかかった。あっという間に食べ終わり、おかわりまでし終わったメンバーは、ある人は黙ってうつむき、ある人は独り言を言い続け、たまにメンバー同士言葉を交わしながら、私が食事を終えるのを待っていた。

ちょうど私の隣にいた今日のお当番のエノさんは、特に食べるのが早い人だった。歯がほとんど抜け落ちており、かといって歯医者が大嫌いなので入れ歯にもせず、食べ物はもっぱら飲み込むものであった。年は40代~50代だろうか。独自の世界をもっている人で、その日も1番に食べ終わり(飲み終わり?)、目をつぶったまま前後に規則正しく揺れていた。

その揺れが、エノさんの安定剤なのだ。

その時はわからなかったが、今になってみるとわかる。

調子の悪い時のエノさんは揺れ方がどこかおかしかった。何かしら唸るような声とともに不規則な動き方をしていたように思う。

その日のエノさんは気持ちよさそうに揺れていた。

あんまりにもエノさんが気持ちよさそうなので、自宅に帰ってから私も胡坐をかき目をつぶり、前後または左右に揺れてみた。これが何とも言えず気持ち良く、感動した。人にはそれぞれ、自分の世界がある。その中にいるときほど心地よいものはないのだなぁと思ったのだった。


そういえば、ハルさんに「エノさん臭い!この服何日着てるの、いい加減着替えなよ」と言われていたのを思い出した。エノさんは相変わらず目をつぶって揺れながら、「んん……」とつぶやいただけだった。

そんな事々を右から左へ何とか受け流し、私は自分の食事を平らげることにのみ、集中した。そうしない限り、頭がパンクしそうだったからだ。


そして、いよいよ食後の報告会が始まった。

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