見出し画像

あっという間の遠回り人生 4

母としては、私には、勉学に励み、一般的に女性らしいと呼ばれる習い事を嗜む娘になって欲しかったのだと思います。
「趣味はお料理です💕」…みたいな。

23歳の時、どうしても自動二輪免許を取得したくて、2時間座り込んで母に許してくれるよう頼んだことがありました。
「そんな年にもなって、道を外して、情けない!」
母はそう言っただけで、正座した私を無視し続けたままでした。
単にバイク免許取ることが、何故に人の道を外れることになるのか未だにわかりませんが…。
本来、23歳にもなって、自分の収入で免許取得するのに母の許可なんて必要ないですよね。
とうとうオートバイを自分で持つことはありませんでしたが、あの時に中免(現在の中型自動二輪免許)を取得しておいて、本当に良かったと今も思っています😂

「もういい加減にお袋の呪縛から解かれろ」

兄が私にそう言ったのは、20年程音信不通だった実父が亡くなった報せを受け、私達兄妹が育った生家に駆けつけた日の夜のことでした。
実父が最期に汚した畳の上を、2人で泣きながら拭き掃除していました。
それまで、私は結婚まで母の言いなりになった上、三男の妊娠報告の際には、母に「無計画」だの何だの電話で罵られました。
兄はその話を聞いて憤慨していました。
それで、もういい加減、母の言葉での支配・束縛から自由になれ、と兄が言ってくれたのです。

母は母なりに、私のことが心配でならないのだと理解しています。
母としては、自分が初めの夫(私の実父)で苦労したので、私には夫に守られながら穏やかで幸せな結婚生活を送って欲しかっただけなのでしょう。
母自身が「どんなことがあっても子ども2人なら、自分1人になっても育てられる」と思って生きてきたらしく、母にとっては、私が子ども3人持つことはとんでもないことだったようです。
三男妊娠の時に散々私を責めたのは、私にお金に苦労することなく、安心して生活して欲しい、という気持ちの裏返しだったようです。

そして、どうしても母が思う日本女性のあるべき姿、理想どおりの娘に育たなかった。そのことを今もひどく悔やんでいるようです。
茶道も華道も着物の着付けもできなくても、私は充分幸せなんですけどね(笑)
子どもも3人産んでおいて良かったと思っています。
3人とも私の影響で、それぞれ立派なオタッキーに成長してしまいましたが…。子育てって難しいですね。

当時の趣味のWebサイト 2003年8月4日掲載
三男坊が誰からも最初の一声が「色が白いね」というエピソードから

母からの恐怖のラブコール

母の良かれと思っての提案や誘いには、たまに「げ!」と思ってしまうことがあります(笑)
離れて暮らしている時は、電話そのものも恐怖だったことがありました。

兄が結婚して実家を出た時点で、ゆくゆくは私が実家に入ることになってはいました。夫も結婚前にそのことは承知してくれてました。
私は結婚後、実家から車で30分ほどの街のアパートに住んでいました。
子育てに追われて疲れ切ってはいたけれど、今思えば、実家を離れて暮らした10年間は、とても気持ちが軽くて幸せな時でした。

三男が生まれた翌年、そのアパートが改装する話が出て、その年度末までに住民はみんな退去することになりました。
「ちょうどいいやん。ここ(実家)に戻ってきたら良かろ?」
母のその一言で背筋が凍りました(笑)

当時の趣味のWebサイト 2003年5月18日・同年9月21日掲載
新聞配達に学童保育の保護者会の仕事、家事育児で一杯になっていた頃

その頃、私は、保育園に1歳児の三男を預けずに働く方法として、朝の新聞配達のアルバイトをしていました。
3~4時間の睡眠を取り、真夜中の2時に起きて2時半に自転車で出勤し、ビジネスバイクの前後に170~180部ほどの朝刊を積んで真夜中の街へ。

夏は、電灯の下に落っこちたカブトムシやクワガタムシを捕まえられる楽しみがありましたが、怖い思いもしました。
大雨で冠水した道路が流れの速い川になってて流されそうになったり、坂道が滝になっていたり。氾濫した川の水が橋の欄干にぶつかって水のトンネルをつくっていたり。
凍結した道で何度もバイクで転んで、飛び散った新聞がシパパパパパッと面白いように凍った路上を滑っていったり。
ガードレールのない坂道で、サイドスタンドを立てて停めたバイクが、積んだ新聞の重さに耐えられずにカカカカカカッとその場で勝手に回り出したり。次の瞬間、スタンドがカキンッと外れて、バイクが横の谷川の方へ倒れ込んでいきそうになったり。咄嗟にそのバイクに飛びついたものの、勢いがついたバイクと共に谷川へ心中しそうになったり。
数々のドラマがありました(笑)

そんなドラマチックな新聞配達から帰ったら、すぐに朝食や弁当を作り、長男を小学校、次男を幼稚園へ送り出していました。
当時は、長男の学童保育の保護者会の役員もしていて、会議や書類作成もあり、ヘトヘトになっていました。
三男のお昼寝時間は、私も仮眠を取っていました。そんな貴重な時間に、実家の増改築について、母から何度も電話があり、心身共に疲弊して怒りが爆発したこともありました。

2004年 増改築中の実家

アパートの退去期限日ギリギリに、実家と同じ校区のアパートに引っ越しました。実家の増改築が終わるまでの約1年間、そこで生活しました。
両親と私達では生活リズムが違うので、台所別々、トイレも別々、洗濯機も別々、玄関やお風呂場は共同というような、準(?)二世帯住宅になりました。
工事が終わって、大きな荷物だけ先に引っ越し業者の方に実家へ運び入れていただきました。
その翌日、2005年3月20日、福岡県西方沖地震が起き、私たちが住む街も震度5弱を観測されました。
我が家に被害はなかったのですが、これから始まる波乱に満ちた生活の前触れなのかとも思ってしまいました(笑)

救いだったのは、継父(母の再婚相手)との関係が良好だったことです。
継父と私たちはとてもいい親子関係だったと思います。
私は継父を高校生の頃から知っていましたし、結婚前にも1年間継父と一緒に暮らしてました。実の父とより親子らしかったと思います。
母からの理不尽な攻撃からも守ってくれたことが何度もあります。
夫よりも私のことを心配してくれていました(笑)

当時の趣味のWebサイト 2003年8月4日掲載

会社とPTAと家事育児

実家での生活も落ち着いてきた頃、その年の秋にオープンしたホームセンターのオープニングスタッフとして働き始めました。
そこから私の転職人生(?)が始まったのです。

ホームセンターに就職するのに、当時3歳だった三男を預ける所が必要でした。運良く自宅から車で7分くらいの所に私営の託児所がありました。
翌年の4月に市立の保育園へ入園するまでお世話になりました。

当時、長男は小4、次男は小2だったのですが、土日祝日や夏休み等の長期休暇の時は、長男と次男で洗濯物を干したり畳んだりしてくれました。大きくなるにつれ、台所の片付けもしてくれるようになりました。お昼ご飯も自分達で準備して食べてくれるようになりました。
本当にありがたかったです。

ホームセンターにて(38)(来店した友人撮影)
作業・接客に必要なものを常に身につけていたので、「歩く道具箱」と呼ばれていた

大変なこともありましたが、ホームセンターの仕事自体は楽しかったです。
広い店内を毎日走り回っていました。…若かったです(笑)
仕事仲間同士の仲も良く、上司や同僚と休みを合わせてドライブや食事に行くことも結構多かったです。
でも、私の勤務がシフト制で、土日祝日も関係なかったので、夫が次第に、
「子ども達と休みが合う職場にして欲しい」
と言うようになりました。夫としては、土日祝日、私が仕事で家にいないのに、子ども達を置いて独りで出掛けるのが、私の両親に対して体裁が悪かったのだと思います。

その後、大手電機メーカー工場内の物流会社に就職しました。
フルタイムの事務のパートタイマーでした。結婚してからの就職で1番やり甲斐があって楽しかった職場だったと思います。
月末の締めにシステムのトラブル等で午前様になったこともありました。でも、仲間にも恵まれ、お互い励まし合って頑張っていました。
また、上司まで一緒になって、私をいじって遊んでいました。私だけフルネーム(柴田 理恵)で呼ばれたり、様々な呼び名も作ってくれました。
便利な文房具を見つけては職場に持ち込むので「文房ガー」。
夕方5時になるとカップ自販機でコーンスープを買ってくるから「コーンスーパー」。等々…。
大きな工場なので、食堂で安くお昼ご飯食べられるし、売店はあるし、あちこちに飲み物の自販機はあるし、とても快適でした。

でも、そこは大企業ならではの超長期休暇がありました。休みが多いのはありがたかったのですが、その分パートの給与は半額近く少なくなる月もありました。
同じフルタイムで働くのなら正社員で、と考え、5年足らずで再び転職することにしました。

物流会社の退職日(44)
裏側に沢山寄せ書きをされた巨大しゃもじとお花が贈られました

次は、運送・倉庫業の会社に、正社員の事務として就職しました。
忙しくてみんなピリピリしたり、時には激しい衝突があったりもしましたが、何かと人を笑わせることが好きな人が多かったです。
朝、パソコンの電源を入れたら、デスクトップ画面にハロウィン仮装した仲間が現れたり。
ある時は、ふと見ると、目の前の席の電話の受話器がエビになっていたり。
土曜日の午後、突然色とりどりの覆面した5人が事務所に飛び込んできたり。
誰かが沖縄方面に出張する度に、次々にパソコン周りに飾るお土産が増えてったり。
ある朝は、モニターの下で佐川急便のお兄さんが鏡持ってお出迎えしてくれたり。
そんなイタズラにいつも元気をもらってました。

みんながやった悪ふざけやイタズラ

けれど、仕事は私のキャパを超える忙しさでした。出来る人には何でもない量だったのかもしれません。
それまで、フルタイムの仕事をしながらも、PTAの役員は毎年のように引き受けていました。でも、その会社に入ってからは、そんな余裕は全くなくなってしまいました。
私が担当する荷主の会社が熊本にあり、翌日の出荷準備をするのに、集荷したトラックが戻ってくるのを待たなければなりませんでした。
それで、帰られるのは通常20時前後、遅い時は22時過ぎました。

私の仕事のピークはほぼ夕方からだったので、そのうち出勤が1時間遅くなり、10時からになりました。
それでも、子ども達を送り出すのに、朝起きる時間は変わらなかったので、夜遅くまでの勤務に疲れはピークにきてました。
そんな時に神の手が…。
丸3年目前で、人員削減でスパッと気持ち良くリストラされました(爆)

運送会社の退職日に贈られたお花

その後、ごみ収集運搬や清掃等の環境関係の会社に正社員の事務として就職しました。
ここでも仲間に恵まれました。仕事帰りや休みの日に食事に行ったりしました。
既に三男が中学生になっていました。8時から17時までで残業がほとんどなかったので、PTAの役員の仕事はしやすかったです。
結局挫折したのですが、経理の勉強をし直したくて日商簿記1級の講座と、全くの自己流だったのでMicrosoft Officeの講座を受けに、仕事の後に隣町まで通った時期もありました。
ですが、その会社も丸3年で辞めました。
同居していた継父が入院の末亡くなったり、母が腰を傷めて入院したりで、一旦自分の心身を休ませたかったのです。
また、祝日が休みではなく、稼働時間に対して給与が安く、昇給もなかったことも理由です。

環境開発会社の退職日に贈られたお花とお菓子

その頃には、三男も高校へ入り、PTA活動にも関わることもなくなっていました。
三男が中学を卒業して7年近くなりますが、未だにPTA仲間との交流は続いていて、時々集まっては一緒に騒いでいます。みんな気さくで楽しい人ばかりです。
(まだつづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?