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物言わぬ者が大嫌いでね

私は、自己主張が激しい。
私はこう思う、こう考える、こう感じる。これが好き、これは嫌、これがしたい、これはしたくない、これが欲しい、これは要らないなど。
私は常に意思表示をする。

そんな私を見て「自分を持ってるよね」と言ってくれる人や「自我が強い」なんてことを言ってくる人も居るが、私の表面しか見てもらえていないのだろうなと感じて、実は少し寂しい気持ちになっている。なぜなら私は、意思表示をすることを強く意識し意図的にやっているからだ。

ある時期『自分の意見や気持ちを伝える』という行動の意味を悩み抜いて、”意思表示は優しさ”だという答えにたどり着いた。その日から自分の気持ちを表現することは、やりたいことと言うよりは”意識してやるべきこと”に変わり、意図的に選択して努力していることの1つだから少し寂しさを感じてしまう。

そんな私は、物言わぬ者が大嫌いだ。
なぜ嫌いなのかは明確で、言わないことを選択する”傲慢さ”を感じてしまうからだ。

そんな人に対して私は「あなたって傲慢ね」と言葉を吐き捨てることがあるが、そんな時必ずと言っていいほど相手はムッとした表情を見せる。そして、私は「そういうところだよ」と感じてはため息混じりで苦笑いしてしまう。

そんな私も物言わぬ時期があったし、その時々の状況によっては未だに物言わぬ者に成り果ててしまう時がある。

学生時代、私はよく物言わぬ者になった。
「なんか文句あんなら言いなさい」と事あるごとに威圧的に意見を求める親と対峙する度に「言っても無駄じゃねーか」と思ってきた。

なにか意見を言ったところで批判めいた反論や、答えによっては物理攻撃を喰らう可能性があったから私は無言で親を睨み続けていた。すると決まって「目で物言わんと、口で言わんか!」と罵声を浴びせられた。

物言わぬ者は、これとよく似た状態になってるんじゃないだろうか。言っても無駄だと今までの経験から判断し、言った場合を想定して自分にとって不利益だと判断するから口を硬く閉じる。

危険だと判断したことから逃れようとすることは、動物としては自然な事だ。目の前で自分を捕食しようとしているライオンがいると分かっていて、呑気にぴょんぴょん出ていくウサギなどいない。それと物言わぬ選択をすることは、同じことなのだと私は思っている。

「そら、怖いから言いたくないよな」と激しく共感はするのだけれど、それと同時に「この人は自分が可愛くて仕方ないんだな」と冷静に状況を分析している自分もいる。

物言わぬことに傲慢さを感じるのは、この「自分のことが可愛くて仕方ないんだな」という言葉に要約されていると言っても過言では無い。

冷静に考えれば理解出来ることなんだが、私達は基本的に自分の気持ちや考えしか分からない。目の前の人が、何を思い、何を感じ、何を考えているのかなんてテレパシーや魔法が使える人を除いて、わかる人など居ない。

そもそも、わからないものなのだからコミュニケーションを通して自分のことを伝えなくちゃ伝わるなんてことはありえない。伝えない選択をするということは、コミュニケーションの放棄だ。

とは言っても、物言う者が終始威圧的であったり攻撃的なのはナンセンスだなとも思っている。言えるから良いってものでもないし、言えばいいって問題でもない。

けれど、どうして威圧的や攻撃的になるのだろうと考えてみるとまたしても共感してしまう。

威圧的や攻撃的な表現になる人はおそらく、”分からないことに不安を感じ、不安から苛立っている”のだろう。未知なことに恐れや不安を感じるのもこれまた自然なことで、その恐れや不安が苛立ちに変わり、表現が威圧的で攻撃的なものになってしまうのだろう。

物言わぬ者、物言う者であっても威圧的や攻撃的な表現をする者の両者に共通するのは、相手への思いやりが足らないことだ。

物言わぬ者は、分からない不安を相手に与えていることに気付かず、目の前の存在を攻撃してくる対象だと捉え自己保身ばかり。威圧的で攻撃的な表現をする者は、目の前の相手に安心を与えようともしない。どっちもどっち。

どちらも、傲慢でしかない。

それに物言わぬ選択をする者に知っていて欲しいのは、物言う者だって恐れを感じながら言葉を紡いでいると言うこと。

例えば、「あなたって傲慢ね」という言葉を選び発する時、私は様々なリスクを覚悟した上でその言葉を選んでいるし、”言いたいから言っている”のような単純な選択ではなくて、その言葉を発する意味が存在している。

「あなたって傲慢ね」という言葉を一言発するだけでも、リスクは下記のようになる。

・傷つけてしまうかもしれない
・嫌われてしまうかもしれない
・突然、怒りだすかもしれない
・最悪、殴られるかもしれない
・目の前で泣き出してしまうかもしれない
・悪者のように見られるかもしれない
・悪者のように言いふらされるかもしれない

ざっと書き出してもこれだけのリスクを考え、そうなる可能性も覚悟して「あなたって傲慢ね」という言葉を”あえて”選んでいる。

この私の発言も、威圧的で攻撃的だと捉える人が居てもおかしくないなと思うのだけれど、例え自分の評価を下げたとしても伝えたいことがある時には私は”あえて”心にぶっ刺さる刺激的な言葉を選び表現すると決めている。

私が決めてやっていることも視点を変えれば、これもまた傲慢なのだけれど、自覚した上であえて選択するのと、無自覚なのは雲泥の差だと思っている。

兎にも角にも、物言う私はいつだって恐れと戦い勇気を振り絞って言葉を発している。そのことに気付く人はごく稀で、気付いてもらえないことの方が多いから寂しさを感じるし、物言わぬ者の自分が可愛くて仕方ない自己保身の姿勢に傲慢さを感じてしまう。

意思表示をすることや意見述べることなど自己主張をするということはいつだってリスクと隣合わせだ。出来ることならリスクなんて取りたくないし、毎回勇気を振り絞るのだって正直しんどい。

だけれど、言葉を発することが出来る身体を持って生まれ、考えることが出来る脳みそが持ち、目の前に存在してくれる人が居るのなら、自分の気持ちや考えを、目の前の人が受け取ってくれそうな表現になるように、丁寧に言葉を選び、心を通わせる為にコミュケーションをとりたい。

自分の気持ちや意見を伝える選択は、目の前の人を敵ではなく理解してくれる存在だと信じ、最大限にリスペクトしている行為だと私は思っているから、物言わぬ者が大嫌いなんだ。

それはきっと傲慢さを感じているだけではなくて、目の前の私を信じてくれていないから伝えてくれないのねと悲しくなってしまうから。

伝えてもらえない悲しさがあることをどうか知っていて欲しい。そうは言っても、私が安心を与えられていないせいかもしれないし、伝えない自由だってあるのだから、伝える努力や物言わぬ者について考える日々は死ぬまで終わらないなと感じてしまうのだ。

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