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それでも私は放課後に2つの卓球台を出した

中学時代は卓球部だった。
卓球部というと暗いというレッテルを貼られていた昭和の時代。
選ぶスポーツで性格を表されるっておかしいでしょ、と思いながらも、地味なスポーツではあると感じていた。

近年の卓球にスポットが当たるようになった功績はここで書いたので割愛するとして。

入学当初はバスケ部に入ろうと思っていた私が、やったこともない卓球部に入ったのは、近所に住む先輩からの強い勧誘があったから。
男子卓球部は大所帯だったが女子卓球部は部員が一桁で、新入生が入らないと廃部だと懇願されたのだった。
入部したのは3人。その後も勧誘し6人に増えた。

その暗いだの言われていた卓球部の面々。
先輩方も、新入生6人もみんな明るくバカばかりしていた。
私が所属していたのはものすごく緩い部活で、万年一回戦、よくて二回戦負けの弱小チームだった。

それなりにやる気はあったのだが、上達しない。顧問が卓球をしたことのない名ばかりの先生で、練習をみてもくれなかった。経験もない部員たちは、なんとなくラケットを振り、球を打ち返す、そんな日々。
女子が使える卓球台は多くて2台だったので、台を使えない人は基本筋トレか壁打ちなのだけれど、飽きると座って話して過ごしていた。ふざけて笑い転げたり歌って踊ったり。

3年生になり女子卓球部に新しい顧問がきた。部員に喝を入れ、厳しい口調で何度も叱った。私は部長だったせいか、特に注意されていたと思う。
やはり卓球を知らない先生で、技術については何も教えてくれなかった。ただ、たるんでいる、部活は遊びじゃない、と。
真剣にやっても、どうやったら上手くなるのかわからず、やみくもにラケットを振る日々。

私たちは反発した。
だったらちゃんと教えてよ、と。

3年生、夏の最後の大会は、相変わらずいい成績を残すことなく終わった。
いい成績じゃなくても、先輩たちは楽しかったと卒業していったのに、私たちは成績を残せなかったことを先生に罵倒され、悔しさと悲しさで最後の夏を締めくくった。

卒業写真に、憮然とした表情で映る私たちが残されている。その残された写真を見るたびに、ああ、辛かったな、この頃。と思う。
あの写真が卒業アルバムに残るのなら、もっと違う顔をして映っただろうに。いや、あの顧問と一緒だというだけで、15歳の少女たちは ふて腐れていたのだ。何を言われても同じだったかもしれない。

あの日々はなんだったのだろうかと思う。やってもやっても上達しないことと、どうしていいのか分からなかった日々。今ならYouTubeとかにお世話になるのかな。

罵倒され続けたあの日々の意味を正直見いだせない。

あの最後の年の夏までの数ヶ月。
顧問が顔をだすと、途端に皆黙ってぎこちなくラケットを振っていた。
気もそぞろの練習なんて全然楽しくなかった。

それでも、その前に培ってきた2年間が私たち部員の仲間意識を育み、なんとか乗り越えた。上がよくないと下の結束力は強まるのだろうか。顧問のことを思い出すと正直げんなりするけれど、部員と過ごした時間は楽しかった。

だから、いまでも卓球という競技は好きなのだ。
私が唯一真剣に観戦するスポーツと言ってもいい。

長年卓球を愛し続ける根底にあるのは、中学時代に卓球部に所属していた以外に理由はない。

辛いことがあっても、卓球を嫌いにならなかったのは、一緒に過ごした仲間のおかげだ。
何度も繰り返した壁打ち。
悔しくてみんなで輪になって読んだ練習本。
ミスしてこってり叱られたこと。
さんざん愚痴を言い合った帰り道。

それでも放課後になると、また白球を打ちたくて2つの卓球台を出してラケットを握った。

何にも知らないところから始めて、強くはなれなかったけれど、仲間と重ねた時間と卓球の楽しさは体に染み込んだ。それでいい。
それだけで卓球部だったことに価値がある。



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