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結果、今日をご機嫌に

先日一人暮らしのことを書いていて自分で驚いたことがある。

一人暮らしを人生でたった2年しか経験していなかったということ。今更気づいたのだ。書きながら。
何度も振り返ってみて考えてみて、やっぱり2年間だと我ながら驚く。
へえ~。

あんなに一人暮らしがしたくてしたくてたまらなかったのに。

私が一人暮らしをしたいと思い始めたのは中学生のときだったと思う。
深く人と関わるのが苦手だと自覚した頃。家に帰っても一人でいたくて、自室にいることが多かった。外と中のバランスをとらなければ疲弊した。

それでも壁一枚の隣の姉の部屋からは音楽や姉の歌声が聞こえてきたり、階下からはテレビを見ているのか、弟や母の笑い声が聞こえてきたりしていた。時にはノックもなく部屋へ入ってくる家族。別にいいんだけれど。一方で「ああ、ひとりになりたいな」といつも思っていた。

私は、中高生の多感だった(?)時期はラジオっ子で、FMラジオをエアチェックしたり、北海道では聞こえない文化放送を必死にチャンネルを合わせてザーザーと無線でも聞いているような雑音が混じる中を西武ライオンズの野球中継を聴いたり、読書したり、暗く日記やポエムなんかを書いている女子だった。

同時期の姉は、盛大に反抗期を迎えて両親と闘う日々を過ごしていて、巻き込まれないように気配を消しながら過ごしていたのもあるかもしれない。
叱られないようにしなきゃ、と意味もなく思っていて、気を使いすぎるタイプなのだとも思う。そのぶん人といるだけで時に疲れてしまっていた。
そんな私は親にも気兼ねする子だった。だからなんとなく実家も窮屈に感じていた。特に親と確執があるわけでもないし、イヤなことがあるわけでもない。別に求められてもいない気遣いで疲れる自分の性格ゆえなのだ。

一人暮らしは気ままだった。そこだけは自分の空間だったから。
あの日々の輪郭は濃い。
仕事でもプライベートでも押し寄せるように喜怒哀楽がやって来て心がとんでもなく忙しい時期だった。でもそれを受け入れる自分だけの時間や空間がきちんと存在していたから、私は平静を保ちつつなんとかバランスをとり生きていられた。

そうして思う。

今は気持ち的には一人暮らしなのだ。気ままだ。娘にはまったく気兼ねしない私。どうしてこんなに気楽なのだろう。
逆に、娘が全く私の趣味ではない音楽をかけて歌をうたおうが部屋を散らかそうが、今はあまり気にならない。
もちろん音楽は時と場合によってはマナーは守る。でもわりと自由だ。

それは行動ではなく気持ちが自由なのだと気づく。

以前と同じようにきっと行動しているのに、今はそれが気にならない。何故なのだろう。

ゆるす、ということなのかな、とふと思う。

あんなに家族の口論を聞いて嫌な気持ちになったり、散らかる部屋を見たり、聞きたくない音が聞こえてきたりして不快に思ったりしていた自分が、今はいない。
いや、口論は今も嫌かもしれないけれど、家庭内では もはや聞く機会がないし。歳とともに、とんがりは削れているようだ。

今も時々ひとりの時間が必要な時は、ある。
それでもきっと「人」との距離を私は知らず知らず少しだけ縮めたのではないだろうか。人といることが時に心地よく思える程度に。

たぶん、近い将来に娘が自立して、再び私は一人暮らしをすることになるだろう。2年よりももっと長い時間を。その時、どんな日々をどんな気持ちで送るのか。今は見当もつかないけれど、その暮らしを慈しむことができるように私ができること。
今日を ご機嫌に過ごそう。


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