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のんびり空と歯医者さんでの出来事

その日はあいにくの吹雪だった。
3ヶ月に1度の歯科受診日。予約時間までに晴れないかしらと窓の外を何度も見上げるが願い叶わず。仕方がない。予約時間を確認し10時半に家を出た。

3月でものんびり時を進める北の空。しんしんと大きな粒で、しかも斜めに鋭く落ちてくる雪を見上げ、徒歩15分ほどの距離すら歩く気力を消失してしまう。一旦家に戻り、車のキーを持つ。車で行くならば重たい買い物もして来よう、とウサギの絵柄の大きなエコバッグを持ち、再び玄関を出て車に乗り込んだ。

歯科の受付を済ませ私が検温されている隣で「昨日電話したんですけど」と受付している20代くらいのお姉さん。さっさと問診票を書いて中へ入っていった。
この歯科医院には長椅子はなく一人掛け用の椅子しか置いていない。すべてパーティションで区切られているが、皆見事にひとつづつ開けて座っている。私はふたつ続けて空いていた一番端の椅子に腰掛けた。他に待ち合い室にいるのはお腹の大きな女性と男性2名。

しばらくしてお父さんと待ち合いに戻ってきた5歳くらいの女の子。りんご味、おいしかったよ。ちゃんとできたよ。と誇らしげな表情で、お腹の大きな女性に抱きついている。かわいい。
通っている曜日や時間帯にもよるのだろうが、そういえばこの歯科で子どもと出会ったことがなかったな、と思う。受付に掲げられたポスターを見ると、確かに小児歯科の文字があった。

娘たちも定期的に歯科検診を受けフッ素を塗ったりしていたのを思い出す。私自身は小学生ですでに虫歯をつくり歯医者に通った。幼心に苦い思い出が沁みついている。その後も歯医者には嫌な思い出しかなかった。娘にはそんな思いをさせたくないという気持ちで、定期的にせっせと小児歯科へ通った。娘2人を虫歯知らずで育てたことは、私が唯一誇れる「子育てで一生懸命やったこと」かもしれない。

当時はあんなに小児歯科に通っていたのに自分の歯は相変わらずおざなりだった。通っていたのが小児歯科専門医院だったので、たとえお気に入りの歯科医であっても私は診てもらうわけにはいかなかった。
数年に一度、親知らずを抜いたり歯痛で通ったりするたびに近くの歯科を探したが、治療後も通いたいという歯科には巡り合えずに放浪していた。

今の歯科医院に出会ったのはアラフィフになってから。今では3か月に一度の定期検診のためだけに通っている。正直、通うのが全く苦ではないどころか、楽しい。
「歯医者が嫌いな人ほど歯医者に行ったほうがいい!」
というのが、歯医者嫌いだった私の出した結論だ。

定期的に通えば通うほど、歯について気をつけるようになるし、磨き方の癖を攻略することもできる。現に娘たちも痛い思いをしたことがないので、歯医者を苦手とせずに育った。
リンゴ味の子も歯医者を嫌いにならずに育ってほしいと願う。お母さんが会計をすませ、お父さんと手を繋ぎ「ばいばーい」と受付のお姉さんに明るい笑顔で手を振って帰って行った。その様子を目で追いながら、自分のことのようにホッと安堵する。

 さて。いつもは時間ぴったりに呼ばれるが、珍しく呼ばれない。リュックから文庫本を取り出し読み始めた。物語へ入り込み始めたところで名前を呼ばれ、慌てて仕舞って立ち上がる。
白とグレーのモノトーン系の診察ユニットが4台並んでいる。奥へ奥へと案内され、今日は一番奥かなと思ったところで、突き当たって左へ曲がる。え、こんなところあったのねと、きょろきょろしながら付いて行く。
いきなり広がる明るい壁の色。そこにはキャラクターのポスターが貼られ、どうぞと案内されたのはフレッシュなオレンジ色の椅子。明らかにキッズスペースだった。

こんな空間がひろがっていたとは、なんて思いつつ、どうぞと案内されたひとまわり小さい椅子を見て一瞬とまどう。
まあ、私 小さいから座ることはできるだろうけれど。ここは突っ込むところかと衛生士さんの顔をはたと見つめるが、大真面目な笑顔を醸し出していたので、私もそれに従う。足もはみ出ることなく収まった。横になるとモニター画面の上部から、かわいいイラストの動物たちが私に笑いかけている。きっとさっきまであの女の子が座っていたのだろう。リンゴ味が出てくるかもしれない、と思い巡らせる。

案の定そんなことはなく、淡々と、あっけないほど簡単にクリーニングのみで終了。歯はつるピカで気持ちよく、私はオレンジ色の椅子を降りる。ちなみにうがい用の紙コップも空色の柄モノで気分が上がった。

それにしても、キッズスペースなんて。混んでいたのかしらなんて思ったところで、はっとする。昨日電話してきたお姉さん。緊急での受診。過去の私が脳裏に浮かび上がる。お姉さんらしき人が座っている後ろ側を通り抜け、キーンと甲高い機械音を遠くに聞きながら待合へ戻る。
3ヶ月後の予約をまたその場で入れた。
私はもう歯医者嫌いじゃない。

外に出ると車にうっすら雪が積もっていた。スノウブラシを取り出して雪をはらいながら「まだ降るの?」と北の空を仰ぐ。まだ3月だもの、と返される空耳。この時期の北の空はのんびりを決め込んでいる。
いつもはここでため息だ。
その日は違った。憂鬱になる雪おろしが意外にも苦ではなく、逆に愉快になっているのである。鼻歌すら出そうな勢いだった。この昂りは何故だろうと考えて、キッズスペースだ!と思い当たる。
いい年して子ども扱いされたのが(されてない)実はほんのり嬉しいのだった。3月の雪を笑い飛ばすほどに。雪を温かく感じるほどに。

いや気持ちのせいだけじゃなく、のんびりでも確実に、雪は温かさを含み始めている。
春は、近づいている。




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