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子ども(娘)が吃音になってから治るまで。たったひとつ変えたこと。

次女が話はじめたのは早く、長女の影響もあり2語文3語文と順調に身につけていった。

長女よりも、のびのびと育っていたように思っていた。あの頃は。

2歳のころは普通に話していたのに、ふと気づくと「マ、マ、マ、ママ」
マがいっぱいでさぞ大変だったよね。
気づくと、普段使い慣れている私や姉や自分の名前までもが吃音になっていた。

最初はそんなに気にも留めていなかったけれど、元夫が「○○ちゃん、どうしたのー」と笑い、祖母が「大丈夫か」と私に言った。気にしない方がいいはず、と理解していたのに周りにいろいろ言われると不安になってしまい、
何とかした方がいいのだろうか、と私もだんだんと迷うようになっていった。

小児科外来で相談を受けることはその後の経験で今はよくわかるけれども、その時の私は小児病棟しか経験がなく、吃音に関しては簡単な知識しかなかった。

その頃はスマホも普及していなく、ネットはあったのかもしれないけれど我が家にパソコンはなく、今のようにささっと簡単に調べられる環境ではなかった。
当時専業主婦だった私が選んだのはやはり小児科。風邪で受診した際にさりげなく相談してみることにした。

先生が、その場でいくつか話しかけてくれる。
「お名前は?」「あ、あ、あ、あ○○」
「何歳ですか?」「さ、さ、さ、さんさい」
というような感じ。

先生は「気にせずどんっとかまえて見守って下さい」とのことだった。
気にせずどんとかまえるって結構大変なことなのよ。だって気になるもの。我が子だもの。

でも、そのことを周りの大人にも伝え、私も心配しないようにしていた。一応は。
そう、「心配しないようにしていた」けれども心の奥では心配していた。
だってそれが親でしょう、悲しいがな、気になるわけで。

また、その頃の家庭環境もあまりいいとは言えない状況だったので、それが原因ではないかと自分を責めたりもした。もう最悪パターン。

私は、その数か月後にシングルになることを決めたのだが、環境が変わることで更に悪化してしまうのではないかとかなり恐れた。

こんなふうに、内心ではものすごく心配し、心配しているということは当然気にもしているということ。結局は。
たくさん迷ったし。気にせずどんとかまえてはいなかった。
「ふり」はしていたけれど。

でも、子どもはとても敏感。子どもの敏感さは想像を絶するほど。
きっと私の不安や迷いは伝わっていたのかもしれないと、後から思った。
当事者でいるときは気づけなかったけども。

「何だか分からないけど心配されている」そんなふうに思わせていたのだろう。
その頃、吃音が改善することはなかったから。

シングルになって引越しをして、娘も環境が変わった。
入園した保育園は、女の子達は既にいくつかのグループが存在していて、途中入園で仲間に入るのが大変だったようだけれど、吃音について言ってくる子はいなかったようだ。
幸いにも、まだ年少だったので、子どもたちもそんなに気にも とめなかったのかもしれない。
また、初日の挨拶から吃音しまくりの娘だったけれど、きちんとしゃがんで視線を合わせ、うんうんとゆっくり聞いてくれる優しい先生に恵まれた。

私も家庭内でのつっかえが取れて、自分にも余裕が出来たこともあり、きちんと向き合い大らかな気持ちで娘の話を聞くことが出来るようになったと思う。
そうすると娘の様子がよく見えてきて、吃音でとても話しづらそうに見えるのだけど、それでも一生懸命に伝えようとしている想いを強く感じることができた。
<つまづく言葉に気を取られて伝えたい思いに心を寄せていただろうか>「伝えたい」という想い。
何度もつまづきながらの言葉でもくじけず、手振りも加えて健気で一生懸命に。
それだけで「この子は素晴らしい」と思えた。

たぶん、そのあとからだと思う。
いつの日か、吃音自体が本当に気にならなくなっていた。

親である私の気持ちが大きく変わったのだ。
無意識だったかもしれないけれども。結果オーライ。
出てこない言葉も、繰り返される言葉も、なんだか愛しく思えるくらい。

幼い娘も「何か分からないけど心配されていると感じていた気持ち」が消えたのではないかな、と想像だけれど、思う。

あぁ、間に合って良かった。
私が、そう思えるまで、そう気づくまで、娘が諦めずに伝え続けていてくれてありがとう、本当に良かった、と。

伝えたいことが伝わらずに諦めていたら、周りが吃音に対して何か言う環境だったら、もっと長引いて娘はまた違う人生になったかもしれない。

その後、本当に吃音を気にしなくなったので、いつからなくなったのかをはっきりとは覚えていない。気が付くと消えていた。
本当に気にしないとはこういうことなんだな、とようやく思い知った。

当時のDVDを見直すとけっこう吃音がある。年長の頃にはほとんど治っている。年単位での覚悟は必要かもしれない。個人差はもちろんある。

今振り返ってみると、まさに親である私の、ひとつの成長過程だったのだなと思う。
普通とか普通じゃないとか気にする事ではないと体感したこと。

子どもの吃音について「何もせず見守る」ということを話したりする医者も知っている中にいるけれど、私は少し違う気がしている。

「あなたはそのままで素晴らしいんだよ、という思いで見守って」ほしい。

集団生活をしていると、そこで傷つくこともあるかもしれない。その時に、これが自分だ、と受け入れられる強い思いがあるといいなと思う。

その後、原因は心理的ストレスだけではないと小児外来勤務になりいろいろ調べながら私は学ぶわけだけれど、たとえそうであっても周りに何を言われても、自分の育て方に不安になるのが親ではないかと思う。
でも何よりも、その子の良さを見ることができる自分でありたい。そうすることで、子どもも親もずいぶん楽になれるはず。

原因として脳のくせなどもあるそうで、ちょっと専門的すぎて難しいので詳細は控えますが、左脳より右脳を使っていることなどが少しづつわかってきている。そういう子は感受性や想像力が高いので、やはり周りの接し方で改善するか悪化するかの影響は少なからずあるようだ。

感染症にかかり治療して治すのと違い、こういう心や発達のことはとても難しい問題で、でも、原因が何か(何が悪いのか)を考えるよりも「こうなりたい」という良い結果のほうを考えながら子どもと向き合うほうがいいと感じている。
それが、なかなか難しいのだけれども。


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