何もしないという親不孝感を
母の日がくる。
女性で子育て中の世代は、母であり、子であり。
もらうこともあり、渡すこともあり。
そんな人もいるだろう。
スーパーの入り口に、花束のコーナーが作られていて、若い夫婦が花を選んでいるのを、横目で通りすぎた。
私は何もしないから。
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何年か前に読んだ新聞記事によると、
母の日にプレゼントしてもらいたいことの1位から4位までは「モノ」ではなかった。
一緒に外食が1位、その後、手紙や感謝の言葉、一緒に旅行などと続き
5位にようやくカーネーション以外の花、となっていた。
カーネーション以外って(笑)
今年はいつもと状況が違うからまた違う結果なのかもしれないけれど。
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私の母も「モノ」はいらない、というタイプ。
もらったあとも、ちょっと癖があるというか、喜ぶのが上手じゃない。
私もどちらかというと、モノは自分で選びたいタイプなので分からなくはないが、それでも健気に子どもはいろいろ考えるもの。
特に近くに住む弟夫婦には、顔も見せないで行事のときにだけ いらないものを贈ってくる、と大変キビシイ。
何でも喜んでくれる人ではないので、私も以前は、何がいいかと随分頭を悩ませて選んでいた。
それでも「何もいらないのに」「こんなの買ってきてもったいない」
なんて言われ撃沈することを繰り返し、どうして素直に喜べないんだろうと哀しくなり、結果、行事に贈りものをするのをやめてしまった。
そのかわり、顔を見せるときには、必ず使うであろう実用品や調味料やお米などの食品をその都度持参する形にした。(母は美味しいお菓子を買っていっても喜ばない)
今年は帰省していないけれど、今まではGWに顔を見せに行くと、翌週の母の日に顔を出すことすらほとんどない、薄情な娘へとなり下がった。
いらないと言われながらも、弟夫婦はいまだに花を贈り続けている。嫁って大変だな、と思う。
それでも。
母の日のプレゼントに頭を悩ますことがなくなったのはいいのだが、世間が母の日で賑わっているのを横目で見ていると、何もしないという親不孝感はぬぐいきれない。
あれが欲しい、と言ってくれた方が余程楽だと。
そういうタイプの親を持つ私は重々承知なのだが、娘にいざ聞かれると、
それほど子どもに買ってもらいたいものなんてないなぁ、と子どもを持ってからつくづく思う。
でも、私はもらったら当然「ありがとう」と喜ぶ。その気持ちが嬉しいもの。贈りものって、気持ちのギフトでもあるのだから。
たたきのめされるツラさも知っているし。
我が家は、下の娘が小学高学年になった頃から、うさぎ好きな母(私)に、誕生日か母の日に「うさぎの小物」を贈ってくれるようになった。
当時は少ないお小遣いでのやりくりなので、無理してお小遣いを使うことないよ、と言っていた。
なので、上の写真のようなお手紙の時もあるし、母の日だったり誕生日だったり、そのときのふところ具合で変わった。
時々このnoteに、本などを紹介するときのトップ画像に出演してもらっている2羽のうさぎちゃんも母の日にもらった娘からの贈り物。
これとか
これとか
いろいろと活躍してもらっている。
モノはいらん、という祖母と母をみて育ち、母の日を知らんぷりして過ごす親不孝ものの母を持っても、母の日を気にかけてくれる娘に頭がさがる。
一年一年、ひとつまたひとつと増えていったので、
娘からプレゼントされた「うさぎのコーナー」がある。
ちょっとした癒しのコーナー。
カレンダーの年は、11月の誕生日プレゼント。古いからもう捨てなよ、と言われつつ可愛くて残している。
本当にお小遣いで買える程度の小物なのだけれど、娘が学生だったころの気持ちの歴史なのだ。
これを見ていると母にも何かないかな、なんて思う。
思うけど、結局「子」としての勤めも果たさず今年も過ぎていくのだろう。
普段は適度な距離感で過ごしているし、とくに何も感じない。
私の親はオンラインとは無縁の生活をしている。メールもしない。
電話は、先日したばかり。あまりかけても、どうしたの、と言われる。でも、そう言われるくらいかけたほうがいいのだろうか。
そんなふうにアレコレ思ってしまうのは、この日が近づくと、贈りものはしないと自分で決めたのに、どうしても親不孝感がぬぐえず、華やかなギフトやそれに纏わる話にのりきれない窮屈さを感じてしまうからだ。
母の日のプレゼントのいるいらないも関係なく、モノとかそうじゃないかも関係なく、大事なのは、そこにある親への気持ち。
と、今年も何も贈らない自分への言い訳を、母であり子である 薄情な自分に贈って、なんとかやり過ごす。
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