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「かっこいい」ってどういうこと? 新庄剛志新監督の流儀は、新しいのか古いのか。はたまた立浪和義の「身だしなみ」の強制とは真逆なのかー「個人の自由」について考えてみる

>昨日行ったという会議では「コーチはやっぱりデブはダメです。絞ってほしいですね。格好いいチームにしたい。選手もコーチも僕もこれから磨いていく。みんなで格好よくなる」と、コーチ陣に注文を出したことを明かしました。

>さらに「野球うまくて、格好いいスタイルで歩いてきて、なんか違うなという選手いるでしょ。『野球うまそうだな』という雰囲気作りも大事だと思う。私生活からそういう意識を持ってもらいたい」と、格好いいチームについて、新庄節で教えてくれました。(上記リンクしたヤフーニュース記事から抜粋)

新庄剛志新監督の登場により、連日連夜、新庄、新庄、新庄のニュースばかり。ファイターズ球団としては、目論見通りかもしんないが、本当に日本のメディアってどうしようもないなあ、これぞまさしく「同調圧力」って奴だろって結局、あたしも便乗してるのか?😅

それにしたってプロ野球界、クライマックスシリーズ中なんだから、せめてそちらを優先してあげたらどうなんかいと思いますけど。

どうにも心に引っかかるニュースがあった。新庄さんが、コーチ陣に「デブはダメだ」と話したという。(もともとファイターズのコーチに体重過剰の人は少ない、っていうかターゲットは一人だけとしか思えませんが…)

昭和の豪傑的プロ野球選手から「アスリート」の時代に移行してからもう20年ぐらいはたってる。野球選手に不必要な体重過剰は良くない、選手を指導する立場の者が太っていたら説得力もない。確かにそうとは思う。だけどそれを「ダメ」「かっこいい」「かっこ悪い」というカテゴリーでもってくるなら、話は別のこととなる。

新庄剛志、本人の自意識と表現スタイルについては、別に文句はない。むしろどんどん好き勝手にやれと思う。だけど、同時にそれが「ファイターズの監督」になったら「ファイターズってそういう感じになるんだ」と必ずや、捉えられてしまうのも忘れてはいけない。

選手だって同じくだと思う。そもそも保守的な日本の体育会の中でも特段に保守的な野球。集団の規律に従うように厳しく躾られてきてるのが、野球選手なのだ。自分で考えて判断する力は残念ながら弱くて、ことさら昨今の若い子は、素直なもんで。派手にするんだなと思えば派手になり、地味にするんだなと思えば地味になる。

現役時代の新庄さんは、そういう世界で、一人、目立って反抗的なわけでもなく「自由」に生きてきた稀有な人物で、なんでそうできたかと言えば、故野村克也監督が「お前はどうしようもなく可愛いな」と言ってしまったように、もともと持っている個人的な「愛され体質」に負うところが絶大なんであって。余人に真似できる種類のものではないのである。

とりあえず新庄さんには、先の発言は、「デブ」は「ダメな人」「かっこ悪い人」というメッセージになってしまうことをわかってほしいと思う。ただでさえ太った人の劣等感は強く、肩身は狭い。全くそんなつもりはなくても新庄が言ってるんだからってなるんだよ…。

そして、一人のファンとして、新庄監督にお願いしたい。ファイターズの選手たちに「かっこよさ」を強要しないでくださいと。

それは、中日ドラゴンズの立浪新監督が「茶髪、長髪、髭 禁止」の「身だしなみ」とやらを強要するのに激しい抵抗を感じるのと同じ意味だ。

一人のカリスマがやってきて、自らの正しいとする「スタイル」に従えと言う。いやプロ野球なんだから「野球のスタイル」はいいよ別に。どういう野球をするのか、方向性があるのは当たり前だし、それが監督たるものの仕事だし。

でも、選手たちの見た目や私的なファッションは、どこまでも「個人の自由」の範囲であり、ましてや「かっこいい」「かっこ悪い」「身だしなみ」といった抽象的な印象、イメージ、あるいは倫理観は、受け取るこちら側がそれこそ自由に感じとることであって、監督やチームが強制することでは、絶対にないと、わたしは思う。

新庄剛志の「個性的なファッションスタイル」も立浪和義の「ヤ○●の若頭スタイル」も、全くもって「個人の自由」である。どっちだって別にいいんだよ。好きなようにすればいいんだ。だからこそ、選手にもコーチにも強要しないでもらいたいのだ。

野球ファンは、新庄監督のように「かっこいい」選手ばかりを好きになるわけでもない。ファッショナブルな選手だから「かっこいい」と感じるわけでもない。「ダサい」格好しかしない選手に共感を持つファンだっている。地味で引っ込み思案の選手に愛着を持ち、その選手が活躍した「かっこいい」瞬間を抱きしめるファンだっている。逆のファンだってもちろんいるだろう。

どうしてかって、だから当たり前だよ。世の中には「色んな人」がいるのである。選手だって同じことだし、そしてプロ野球とは、それこそ世の中でそれぞれに生きる、様々な色々な状況、立場、現実を生活する人々が楽しみにする娯楽なのだから。

新庄剛志監督が、現役だったころのプロ野球界と今は、根本的には何も変わってはいないだろう。相変わらずのタテ社会で封建遺制のまま、おっさんたちの意識も旧態依然のまま。ゆえに「プロ野球を変える!」と意気込む新監督の気持ちは重々わかる。でも、その捉え方がまた90年代のままだとしたら。21世紀に生まれた子供たちが徐々に増えてきているプロ野球の世界にも間に合わないことになる。

奇しくも2021年末、セパ同時に選ばれた新監督、新庄剛志と立浪和義は、180度違っているのではない。権威のある父に反抗し家出していたが出戻ってきた、認められようとして「別のスタイル」を取っている、合わせ鏡に映った、双性児のようなものではないのか。

「多様性の時代」なのだから「新庄スタイル」「立浪スタイル」と多様なスタイルがあっていい、という罠にうっかりはまってはいないだろうか。

自らの目線に敏感でありたい。現実は、すでに初めから多様であるしかない。個々の存在を認めるーそこから始まる野球をしてもらいたいのだ。


(文中敬称略)






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