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スージー鈴木『恋するラジオ』(ブックマン社)を読んでー今度は音楽と青春の旅をしたー


「スージー鈴木」の名を知ったのは、いつだったのか。ツイッターを始めた頃、プロ野球ロッテマリーンズのコラムを読んだのがきっかけだったのか。でもその前から知っているような気もするし、スージー甘金(マンガ家)と間違えていたような気がしないでもない。

何もかも定かではない「スージー鈴木」に、でも何かこう80年代の香りを感じていた。80年代サブカルの匂い…。橋本治よりは若い。いとうせいこうやえのきどいちろうに近いが、ナンシー関にはもっと近い。だってスージーだし。

全然どうでもいい話ですが、わたしが大学生だった18〜22歳のころは、1980〜84年。未だバブル経済以前の「80年革命」と名付けられたこともあるサブカルチャー絶頂期でした。『ビックリハウス』と『宝島』『広告批評』『anan』『POPEYE』…『劇画アリス』…雑誌と広告の隆盛。

その頃にどんどん出てきていた当時30代に入った全共闘世代、その下の大学生。社会人崩れー今も活躍する文化人(ていうのかな?)いわゆる「マルチな才能を生かして活躍する」パルコのCMに出たりしてた。高校は稚内、大学で札幌に出てきたわたしにとっては、憧れの眩しいキラキラした人たちでした。

スージーさんは、わたしより4歳下なので、その時はさらに若いまだ高校生。東京で大学に入る80年代後半は、わたしは大学を卒業し、札幌パルコでアルバイトをしていた😅

『恋するラジオ』は、そんな微妙に異なりながら、でも確実に同時代を生きていた一人の人間「ラジヲ」が、ラジオと音楽とともに時空を超えて生きる物語ー

千葉ロッテマリーンズに関する野球コラムで知ったスージーさんの文章が大好きになり、ツイッターをフォロー。たまにコメントする機会もあり、勝手に親近感を抱いてきたけれど。この本を読んだらますます増幅してしまった。

クイーン 音楽評論 渋谷陽一 ロッキンオン 忌野清志郎 『パッチギ!』 イムジン河 加藤和彦 「終わりの季節」小沢健二ー「LIFE」「強い気持ち 強い愛」…キーワードはいっぱい。

わたしにもこれらについて語らせよ。どんどん語りますよ〜〜って。思い出が重なり、自分がどこにいるんだかわからなくなる。

前のエントリーに水島新司先生の思い出を書き連ねた。少年マンガと野球の思い出は主にミドルティーンの頃になる。一方、音楽とサブカルの思い出は、高校生から大学生の時代ー青年期のものになる。

イギリスでパンクロックが生まれ、セックス・ピストルズが日本に知らされたのは1975年。意外と古い。1979年の北の最果て稚内高校、2年A組の一部では、ピストルズのアルバムを録音したカセットテープが貸し回され、学校祭ではレッドツエッペリンやディープパープルのコピーバンドが演奏してた。ボーカルのこまっちゃんはかっこよかった。

小説は村上春樹より村上龍で『コインロッカー・ベイビーズ』もやっぱり貸し回され、授業中に読んだ。そして「ロッキン・オン」を知る。とくだん音楽好きでもなかったが、ロッキン・オンを読んでいる男の子と仲が良くて、もっと話をしたかった。貸してもらって「音楽評論」なるものを知った。

このあたりから10年ぐらいは、音楽評論、映画評論、マンガ評論、広告批評といったサブカルチャーの評論が雑誌でも書籍でも目立つようになってくる。それまでの文学や芸術の「難しい評論」とは一線を画していた。

もともと親ゆずりに理屈っぽい上に影響されやすく文学も大好きだったわたしは、あっというまにそれらにハマっていくことになる。中でも「ロッキン・オン」と「宝島」には、相当にかぶれにかぶれやられていた。

ゆえに『恋するラジオ』の中で、ラジヲが、渋谷陽一の文章に出会い、即座にやられていく様は、わかりすぎて鼻の奥がつーんとした…。早稲田大学に進学して、東京のラジオ局で実物に遭遇するあたりは(やっぱ東京だよなあ)って羨ましくもなったけど。

当時の空気は、北海道の若い女の子にも「なんかやれる!」って気持ちにさせる何かがあって、18、19のあたしは、いきなりミニコミは作るし、音楽やったこともねーのにいきなりオリジナル曲を作って一人で歌ったり、バンドを作ってライブをやったり、イベントを企画して実行したりもしていた。

ラジヲが、リズムボックスのシンコペーションを使ってギターを引いて、ラジカセで一人多重録音をしていた頃、あたしもリズムボックスとキーボードで曲を作って録音して練習して、ライブをやっていたんだよ!ラジヲ〜〜っ😭て抱きつきたくなった。

そういうことが特別な訓練をしなくてもできるようになった時代だった。別に才能なくたってできる。歌いたいことがあれば歌える。歌ってもいいんだって。あたしは思い込んでいた。

ラジヲがラジオ局で渋谷陽一に出会ったように、わたしは札幌の喫茶店バナナボートで和田さんに出会っていた。「はちみつぱい」のベーシストだった有名な人だって友達に連れていかれて。ウエートレスのバイトをしていた。細野さんや坂本龍一、フリクションのレックやヒゲや、いろんな人が来た。わたしはまったく透明人間のように、お店の片隅にいるだけだった(これもどうでもいい話ですが、ラジヲが聴いていたピッチカート・ファイブを後に結成する小西さんの家でボーカル録音をされたこともあった。お気に召さなかったようで以来一言も話さなかった😀)

やがてラジヲは立派なサラリーマンになる。わたしは、しがないバイト女でいるしかなかった…自分が作る音楽とは縁が切れたように何もしなくなった…。

結婚して子どもができてー家の中ではロックやパンクやいろんな音楽が流れていた。ロッキンオンもしばらくは読んでいたし。RCサクセションも大好き。清志郎ももちろん大好き。宮本浩次のエレファントカシマシが大好きになる。

そうしてマンガ評論を書き始め。一応デビューもした。30代は子育てと、ものを書いて書きまくり、そして40になるころ、もう挫折…。

ラジヲが好きだという、細野晴臣の「終わりの季節」。あたしは矢野顕子バージョンで聴いていた。

今頃は、終わりの季節  呟く言葉は さようなら

朝焼けが入り込んできて 暗い顔を赤く染める

それで救われる 気持ち…

って覚えてるつもり、いつも口づさんでいた歌は、うろ覚えで、本物の歌詞と断片的にしか合ってなかった…(正しい歌詞は、どうぞ『恋するラジオ』を読んで確認してみてください)

でも何かにつけ、口元からこぼれてくる…。どうしてかわからないけど。ラジヲの心にも大切な歌なのだと知って、それこそ救われるような気持ちになる。

ラジヲは、残りの人生に何を描くのか…

わたしの人生も残り少ない。終わりの季節を迎えるにしても。

やっぱりやりたいことをやりたいなあって思ったよ。ラジヲ。







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