野球があって本当に良かったと思えた日。それはどうしてなのかを考えた日。拳士のドジと賢介のホームランが結ぶものーあるいは、ある男の起こした事柄についてー


ーでも、他にどこも行くとこがないんですよ。野球は人生のつっかえ棒です。石村さんもつっかえ棒につっかえてもらってるうち、中田翔のホームランと劇的な出会い方をするー 

上記リンク、石村吹雪さんの文春野球コラム えのきどいちろうさんによる紹介文より

昨日、田中賢介の劇的逆転2ランによって勝利を収めたファイターズの試合。今シーズン143全試合を書き記すと決めた、このノートに書き付けることはいくらでもある。

先発吉田侑樹、「ご両親」のあだ名がついたヒーローインタビュー以来2年ぶりの好投。近藤健介4安打同点タイムリー。西川遥輝の鬼走塁、杉谷拳士、レフトの守備固めに入り痛恨の判断ミスで1点献上、打撃コーチ(だよね?)金子誠さんベンチで説教されるなどなどなど。なのにどうにも書き進めることができなかった。

頭の中には、前日に読んだ、えのきどさんの言葉が居残っていた。

ー野球は人生のつっかえ棒ですー

あの男にも人生のつっかえ棒があったなら。賢介のホームランに出会えたかもしれないのに…。

川崎での小学校のスクールバスに乗り込み、多くの人を傷つけ、自らも命を絶った男について。命を絶たれた子どもさんやお父さんのこと、残された人々。罪を犯した男の側にいたであろう人たちのことに想像を巡らすとどうにも辛くなり、涙が出てきてしまう。なぜこんなことが起こるのか、答えなど出るわけもないし、わたしに云々する資格などあるわけもないのだけれど。

昨日の夜、わたしは、本当に野球があって良かったと思った。

毎日、何も変わらないようで、実は毎日様々なことがある。自分で何やってんのかな?これでいいのかなと迷いながら、何も決めることもできず、適当に生きているだけのような気もする。ツイッターで偉そうなことを呟いたりして。何様か?とか、でも他にできることもないしなとか。無為だよなとか。

無事に生きているだけで、有難いのだとか。平凡で十分とか。色々な自らに対する言い訳はある。言い訳?何を誰に?

そんな風に、おそらくは誰もに人生の不安や惑いはある。若い人には若い人の。中高年には中高年の。

わたしが野球に出会ったのは、小学校の高学年。やっぱり多くの人がそうであるようにたまたま偶然だ。テレビで高校野球を見たからか、プロ野球を見たからか、雑誌で野球マンガを見たからか、きっかけは、どれだかもう判然としないけれど。

12年前、北海道日本ハムファイターズに出会って、大変に熱心なファンになった。ほぼ毎年全試合を見ているか聞いて過ごしてきた。

その日々は、野球を見てきた日々なのか。人生を生きてきた日々なのか。どちらでもあり、どちらでもないのか、どうでもよいのか。どっちにせよ。その日々の中で、わたしの心にはっきりと刻まれた事柄はある。

人生に、不可欠なもの。それは「楽しみがあること」だって。

どのような状況にあり、何があっても。生きている間は、人は生きていく。そして置かれた状況の中で、何かしらの楽しみを見出す。それが人間だ。

端から見たら何が楽しみなのかわからないかもしれない。不気味に思われたり、バカにされたりすることもあるかもしれない。社会的に見たら悪である場合もある(かなり多いかもしれない)だけど、人は、それを必要としたら必要とするままでいるはずだ。

その点で野球は、健全な、およそ健全な、楽しみの一つだ。野球を好きで他人に迷惑をかけることはあんまりないし、あったとしても人命に関わるようなことではない(と思う)。

わたしが、昨夜「野球があって本当に良かった」と思えたのは。それが自分の支えなんだな、自分が励まされているんだなって、初めて本当に心から実感したから。賢介のホームランによって。

ー野球は人生のつっかえ棒ですー

あの男に、もしも野球があったなら。

人間は自分が本当に間違っている、正しくない存在だと実感してしまったら、死んでしまうー橋本治さんの言葉をいつも反芻する。

何も価値がないとか役に立たないとかではない「間違っている」と実感してしまったら、自分自身を肯定する術がなくなるから。人は自分が完全に間違っているとは思いたくない。だから必死になるー嘘を付くし、他人を巻き添えにするー生きるために。

あの男がどうだったのかなんて、わからない。だけど、何かしらのつっかえ棒をどこにも見つけられなかった人間の地獄を。悪鬼として彼岸に見つけ来岸の我が身と無関係とすることはできない。

だって、わたしには、野球があるのだから。























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