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公式サイトに、荻上直子監督が、ほぼ完全な説明と解説をすでに公表。しかし、それは観る者へ何の助けにもならない、恐るべき映画『波紋』に見つけたものとは…。

公式サイト・コメント全文引用します。
ー荻上直子監督 
その日は、雨が降っていた。駅に向かう途中にある、とある新興宗教施設の前を通りかかったとき、ふと目にした光景。 施設の前の傘立てには、数千本の傘が詰まっていた。傘の数と同じだけの人々が、この新興宗教を拠り所にしている。何かを信じていないと生きていくのが不安な人々がこんなにもいるという現実に、私は立ちすくんだ。 施設から出てきた小綺麗な格好の女性たちが気になった。この時の光景が、物語を創作するきっかけになる。
日本におけるジェンダーギャップ指数(146ヵ国中116位)が示しているように、我が国では男性中心の社会がいまだに続いている。 多くの家庭では依然として夫は外に働きに出て、妻は家庭を守るという家父長制の伝統を引き継いでいる。 主人公は義父の介護をしているが、彼女にとっては心から出たものではなく、世間体を気にしての義務であったと思う。日本では今なお女は良き妻、良き母でいればいい、という同調圧力は根強く顕在し、女たちを縛っている。 果たして、女たちはこのまま黙っていればいいのだろうか?
突然訪れた夫の失踪。主人公は自分で問題を解決するのではなく、現実逃避の道を選ぶ。新興宗教へ救いを求め、のめり込む彼女の姿は、日本女性の生きづらさを象徴する。 くしくも、本映画の製作中に起きた安部元首相暗殺事件によりクローズアップされた「統一教会」の問題だが、教会にはまり大金を貢いでしまった犯人の母と主人公の姿は悲しく重なる。
荒れ果てた心を鎮めるために、枯山水の庭園を整える毎日を送っていた彼女だが、ついにはそんな自分を嘲笑し、大切な庭を崩していく。 自分が思い描く人生からかけ離れていく中、さまざまな体験を通して周りの人々と関わり、そして夫の死によって、抑圧してきた自分自身から解放される。 リセットされた彼女の人生は、自由へと目覚めていく。
私は、この国で女であるということが、息苦しくてたまらない。それでも、そんな現状をなんとかしようともが き、映画を作る。たくさんのブラックユーモアを込めて。

これ以上、「映画についての説明」をする必要はない。なんもかんもこの通りなんで。しかし、なんというか自ら撮った映画をここまで他人のように客観的な解説と主張をするには、監督自身になんらかの意図、あるいは必要性があったはずだ。

わたしは、映画『波紋』を見て、監督の言う社会問題やジェンダーの格差について重々感じたけれども、しかし、そのような型にはまった問題提起だけが、監督の本心から見せたいものとは、到底思われなかった。

むしろ逆で、そういった様々な問題があったとしても、主人公の依子と彼女の触れ合う人々は、そこに生きている。
どういう有様であれ、死ぬまでは、生きているしかないーそのものを映し出し、さらに「娯楽映画として成り立させている」こと自体に驚愕した。

監督はコメントで説明するけれども、映画は説明しない。
夫は、なぜだかわからないが失踪し。なぜだかわからないが戻ってくる。
依子は、なぜだかわからないが魔法の水を信仰する「緑命会」に入会している。誰だかわからない中年女(キムラ緑子)がリーダーらしいが、なぜ彼女がリーダーなのか「先生の魂が入った水」というけど、その「先生」ってどこの誰なのか、最後までわからない。

息子は九州の大学に行き、九州で就職したと話されるが、聴覚障害者の彼女を連れて突然「結婚する」と帰省してくる。なぜ「彼女なのか」は一切わからない。
 依子は、スーパーのレジでパートをしているが、どうしてそこで働いているのか、控室で大福食べながら話す、おばさん(木野花)は、どういうシフトなのか、依子との関係もよくわからない。
おばさんはプールで倒れ、依子は、彼女の家を訪ねる。公営団地のその部屋でいきなり現れる情景に、見ているわたしは「なんでこんなことに?」と驚愕するが、映画の中の依子も同じである。

おばさんの知られざる過去と現実に、号泣する依子は。しかし、なぜ彼女がそれほど泣くのか、映画は、あくまでも説明しない。

映画は、沈黙しながら、発し続ける、「あなた」だよと。
考えてみるのは、感じ取ってみるのは、「あなた」ではないですか? と。

赤の他人でしかない「依子の生活」を、わたしたちは共有する。
依子は、一人でない。いや一人だけど何人もいるし、何人もいるけど一人でもある。紋切り型の「宗教にはまった女キャラ」でもないし、夫に蒸発された「不幸な妻キャラ」でもないし、息子が勝手に同棲してイライラする「意地悪で過保護なお母さんキャラ」でもない。
つまり「依子」は「キャラ」(キャラクター)ではないのだと。
依子という人間ー人間は「キャラ」では語りきれない表現できないのだと。

依子は、同時に「あなた」であり、彼女自身の「わたし」である。
およそ全ての「わたし」は、「依子」でありえる視点。
映画という客観手法でないと描き出せない「その人が存在する」あり様を。
この映画は、奇跡のように捉えることに成功しているーのではないのか。

よって、いかに荻上監督が「わかりやすい説明と解説」を公式サイトに公表しようとも、それが「ネタバレ」になることはない。

スクリーンに映る、光と影に過ぎないものに。
広がる波紋に、その漣に。
生きていくことのリアリティは、そして求められてやまない「自由」は、
浮かび、消えていく。
その「自由」を、掴みたいと意志するのか、どうか。
全ては、「わたし」の側にある。










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