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さんかく 千早茜著

 首をふって、「いただきます」とひとくちすする。干し貝柱の旨みが舌にじんわりしみる濃厚な米のポタージュ。「おいしい」と声がもれた。
 湯気の向こうで伊東くんが顔をくしゃくしゃにして笑った。あ、と思う。人って褒められるとこんな顔をするんだ。なんだか視界が晴れていくようだった。
 もっとその顔を見たくて、もう一度「おいしい」とつぶやいた。

さんかく p166

 食事、人間関係への解像度が高い小説「さんかく」___
 物語にでてくる食事だけでなく登場人物の心理描写にも舌を巻いてしまうほど素敵な作品でした。

高村夕香:京都の古い木造の京町家で一人暮らす40代手前の女性。フリーの             デザイナー。
伊東正和:大阪の厨房衛生用品の会社で営業として働いている男性。華と付き合っている。
中野華:京都の大学院生の女性。正和と付き合っている。

 以上が簡単な人物紹介です。題名の「さんかく」とはこの3人の三角関係から来ていると思われます。正和と華は付き合っていますが、お互いの仕事や恋愛観、考え方の齟齬により関係はギクシャクに・・・そんな時に正和は学生時代に同じ職場で働いていた高村と再開し同居生活を送ることになります。

 これから先は読んでいて心に残った言葉や台詞を引用したいと思います。

 もう怒ってはいない。ただ残念な気持ちがあって、怒っているふりがしたい。持て余した気持ちはこのビニール袋みたいだ。お願いだから、早く受け取って。

 p23

  高村が正和に口説かれたと感じた時の場面の台詞。
”お願いだから、早く受け取って。”は持て余した気持ちとビニール袋をかけているように読み取れます。p23

(略)一人暮らしにとって予定外の食材は、消費しなきゃいけないという義務の味が付加されてしまう。それが、どんな好物でも。

 p61

 そうだろうか。「今よりもっと」を望むことが野心や向上心だと言われがちだけれど、「今を維持する」ことですら私にとっては大変なことだ。

p66

 一人の自由も二人のバランスも難しいものだ。誰かを失望させるより、自由の代償を一人で受けとめるほうを、私はいつも選んできた。

p114

(略)狭いベッドで一緒に眠ると窮屈なのに、いないと空虚に思えるようになってきている。この変化がすこし怖くて、あたしはときどき距離を取ろうとしてしまう。今みたいに。

p186

 正和が女と同居していると勘づき始めた華。p186

 ひとくち、ちょうだい。そう言いたいのに、言えなかった。いつもそうだ。なにかを望むと必ずストップがかかる。欲しくないふりをしてしまう。こんなささいなことですら。

p209

 互いに恋愛感情はないもの、外泊や恋愛について言葉にならない感情に渦巻く高村と正和。p209

「なんだか最近よくわからないんですよ。彼女のことが好きなのか、必要とされたいだけなのか」
「それは別々のものなの?」

p224

「でも、あの二人、幸せそうに見えませんか。ぼくには見えます。最終的に恋愛とか性欲とか関係ないところに落ち着くのなら、どうしてそういうものが必要なんですかね」

p226

 喫茶店にて、他テーブルで老夫婦が言葉も交わさずに黙々と朝食を食べている時。 p226

 安堵があった。それが答えだった。穏やかな生活を共にしてきた私たちの間には、離れる寂しさはあっても、引きとめようとする熱はなかった。

p253

 高村が正和に来年度から東京に戻る、と告げた時。p253

「選べる自由って一番を見失うよね」

p267

(略)そうだ、あたしは傷ついている、ずっと。連絡を取らないのは傷ついていることを正和に知っていてもらいたいからだ。謝られたり、別れたり、和解したりして、あたしの傷を終わりにしたくないのだ。

p278

 華の台詞は、恋人に浮気されたり何気ない一言で傷つけられてしまった人たちの心を代弁してくれていませんか?p278


 ぼくが一番好きな場面はp226の高村と正和が喫茶店でモーニングを食べている時。実はその前で二人は喧嘩をしています。恋愛感情のない男女が一つ同じ屋根の下で暮らす。最中正和は彼女との交際を、高村は以前の不倫相手と出かけることが多く二人はなんとも言えない感情を抱きます。

 別に好きじゃないのに、ただ食の趣味が合うから、一緒に暮らしてるだけなのに___

 正和は彼女とうまくいっておらず高村は以前の不倫相手の 作者の言葉を借りるなら_ 沼にはまっている。
 二人が同居生活をしているうちに自然な好意が芽生えたことは間違いありません。

「でも、あの二人、幸せそうに見えませんか。ぼくには見えます。最終的に恋愛とか性欲とか関係ないところに落ち着くのなら、どうしてそういうものが必要なんですかね」
 高村さんの手が止まった。
「なんで私に訊くの?」と俺を見て笑った。笑っているのに眉は下がっていて、なんだか泣いているように見えた。

 p226

 こんな三角関係、普通じゃない。ほとんどの人が経験したこともないはず。なのに正和、高村、華の気持ちがわかる、心に刺さる。
 ぐちゃぐちゃとした人の心をこれほどまでの文章にするのってどういう感性なんでしょう。

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