読書してみて考えた⑬「つれづれノート39」

引き続き 「つれづれノート」、2020年8月~2021年1月の記録。題名は「みんなが、ひとりでいても寂しそうにみえなければいいのに」。2021年1月に友人の死を知ったから、私には思い出したくない日々だけど。

1 2020年8月
著者は18日まで宮崎。
10日「テレビではいろいろ話している。コロナのこと、GoToトラベルのこと、すべての対処法が生真面目で悲観的な日本人らしいと思う。お国柄ってある。日本人は生真面目で悲観的だからこういうふうな成り行きになるのだ。私は日本国との共通点を飛び石のように踏んで歩くしかない。」
私は不真面目で楽観的なのでお盆は実家に帰省したし、20~22日はGoToで初のクラブメッドだった。
お盆、実家の父はエアコン嫌いのせいで猛暑でくたくただった。地元の海水浴場は コロナ自粛のため遊泳禁止で 腰から上まで水に入るやいなや監視員さんに注意されたっけ。ただ育ての叔母の墓参りができて良かった。幼馴染や親戚とも会えない2020年夏、私のコソコソ帰省の思い出。
で、クラブメッド。うちの子がまだ幼児だった頃に 託児所目当てで何度も予約しようとしたけれど 予算的に断念した石垣のクラブメッド。よし!GoTo利用しかない!念願のオールインクルーシブだし、海外気分も味わえる。20~22日の2泊3日,クラブメッドカビラで決定。(休校の影響で8月下旬から2学期が始まるため 夏休み中の最安値)ツアーでGoTo利用のほうがお得で楽チンと分かっていたけど 猛暑のせいか10万円のせいか 夫の仕事(ほぼエアコン工事)が忙しく 嫌な予感がしていたから 航空券とホテルとそれぞれ別で予約していた。案の定、数日前に夫から「行けない」と言われ夫の航空券はキャンセル、沖縄方面はキャンセル料なしだったと思う。ホテルはコネクティングから一部屋3人利用に変更し、1~2万円程の損失(夫から回収したが)。
2度目の石垣島。新しい空港は初めて。中部からの直行便は2~3割程度の乗客。緊急事態ではないが 沖縄の感染が多く自粛するように言われ始めた頃。タクシーでホテルに向かう際「こういう時期だからホテルから一歩も出ない予定」と運転手さんと話すと「そうだね、街のほうは行かないほうがいいよ」と言われる。のんべえのヤニカスにはフリードリンク+テラスで喫煙の最高の休日だった。ただ到着日の金曜だけ晴天で土曜は曇り、日曜日は間もなく台風接近という中の離陸となってしまった。「夫を置いてきたから バチが当たったんだ」と気が気じゃなかった。時刻通り機内に乗り込んだのにすごい揺れ(暴風雨)で出発できず、一旦降ろされターミナルで待機後の出発だった。怖かった。ちなみに以降の便はほぼほぼ欠航だったと記憶している。
ホテルでGoTo申請用紙にハンコをもらっていたから 数週間後観光局に郵送申請して、数万円が振り込まれたのは、半ば諦めかけた12月28日のことだった。銀色さんの言うところの「飛び石のように踏んで歩いた」旅の思い出。

2 2020年9月
著者は8月18日から東京。
3日「二十数年間、折に触れ時間をつぶしてきた。家族のために自分のしたい行動(移動)ができなかった時間分、時間をつぶしてきた。もちろん子供たちは好きだし、子育ては貴重な経験だったし、子供と別れることはちょっと寂しい。でも子供は成長し巣立っていくもの。(中略)やっと子育ての期間が終わる。やっとだ。うれしい。寂しくもあるけど同時にうれしい。」ものすごく同感。
第1子出産時、私はまだ常勤医で院内保育園もあるし 再び元のように働けると信じていた。だけど第2子出産を控えて それは夫が主夫になるか、実家に依存するか、お手伝いさんを雇うか いずれかでないと難しいのでは?と思い始めた。3ついずれも夫の同意が得られなかったから 私は一旦仕事を辞めた。そして1年後子供二人を抱えて働き始めたけど、今度は小1の壁があった。そして娘の不登校傾向の際 スクールカウンセラーの言葉尻から「お母さんが忙しいから」「愛情が足りないのでは?」と言われた気がしていよいよ働くことを諦めた。気が付けば 現在週1日しか働かない 情けない医者になってしまった。だからものすごく同感する。仕事だけではない 会いたい人に会えない、行きたいところにも行けない私の18年間だった。
(医師になって結婚するまでの10年間もほとんど休みは無かったけど)
また田舎の県立高校では地元の国公立大学に行くのが一番の親孝行のようで、金銭的な問題なのだろうが、親も子供も地元が良いらしい。そうなるといったい、いつ子育てを卒業するのだろう。私はたった一度の人生、同じところで暮らすのは勿体ないな、と思うし、子供には子供の人生や哲学があって然り、と思うのでぜひぜひ自立してほしいのだけど。
そういえば先日、医局から女医アンケートがあり回答したが、今回で3回目になる。卒業した大学(元の帝国女子医専)、日本整形外科学会、いずれのアンケートにも「小1の壁」と「3歳児神話」があるから仕事が続けられないと書いた。もう7,8年前の話。同じことを今回も書いた。変わらない日本国だ。子育ては母の役割、山口百恵は素晴らしいが松田聖子は如何なものか的な(そういう意味でも娘さんが亡くなってしまったのは本当に残念)という世間も変わらなければ、扶養控除(103万円の壁)もいつまでたっても無くならない。頑張って働いてきた(精神科受診してから娘は落ち着き、一昨年まで週4日の仕事)結果が 高等学校就学支援金の不認定×二人分だもの、やっていられない。

3 2020年10月
著者は8日から宮崎。
私は10月は亡くなった友人(M)と最後に電話で話した月。あの時は最後になるとは勿論思っていなかった。悔やんでも悔やみきれない。
10日「社会に対しては従順に。そして自分に対しては誠実に生きる」
15日「とても・・孤独っぽい。(中略)いつかだれか気の合う人と出会うかもしれないと望みを持ちながら今まで生きて来たけど、もう出会わないかもしれないと思うようになった。自分の好きなことを選択し続けたらこうなったのだ。だからしょうがないんだ。」
17日「これまで 死の恐怖や お金とはをひとつひとつ乗り越えてきたように、これも乗り越えよう。孤独感の克服」
ちょうど感染者がじわじわ増えてきて 日照時間が短くなった(秋の夜長)頃だったか。きっとMも孤独感に苦しんだんだろうな。想像するだけで息が詰まりそう。
数年前の大学同窓会、「次回は4年後東京オリンピックの年に」と決めたが、当時は軽い食事会のつもりが4-50人(医学部は1学年100人)の会となってしまい幹事はもうコリゴリと言う。だから2019年の終わりに 私幹事やります!10月31日のハロウィンにしましょう!なんて年賀状に書いたりしていた。それから間もなくのコロナ禍。同窓会は中止だけど折角だから31日、少人数で集まろうということになり、高輪プリンスの鉄板焼に。同級生の中でも華やか女子グループで7人ほど。皆パッと見 美魔女女医風だけど 話せば出会った18歳当時とほとんど変わっていない面々と。とても楽しかった。
ホテルはGoTo利用で京急EXイン。低層階好みの喫煙者にはありがたいホテル。坂道を一直線ですぐ品川駅でとっても便利。鉄板焼の前に 毎年の温泉メンバー(7人の会は怖いという二人)と小一時間(都知事が2時間以内と言っていた頃)カフェで、Mからの電話について話す。それ程に23日の「鬱で休職中です」というMに私は動揺し、なんだか不安で、どうしていいか解らなくて、とにかく苦しかったんだと思う。今となれば なぜあの日、私は品川ではなくMの住む街に行かなかったのか、悔しい。胸騒ぎと不安で、週1回LINEしようと決めていた。28日Mの返信は「こちらもじわじわ(感染が)増えています」だった。

4  2020年11月
著者は10月23日から東京。23日金曜は私がMと最後に話した日。そして11日から宮崎。
18日「前回(中略)感じた強烈な孤独感。今はまったくない。やることがあるから孤独を感じる暇がない。孤独には暇じゃないとないならないのかも。」
日頃、外来で会う(自称)どこに行っても治らない患者さん、実際ほとんどがケガや病気ではないので 加齢変化+使い方が主因だから 「治る」のは難しいと重々承知だけど。医者を転々したり もう何年も治らないなんて人は 私が思うに すごく孤独か、ものすごく忙しいか、の二択だと思っている。どちらとも 遠慮せずに周りの人に助けてもらえばいいのに、と思ってしまう(もちろん口には出さないが)。とは言ってみも・・・小1の道徳で最初に習うのが「かぼちゃのツル」だと聞きネットで調べたことがあるが、義務教育の最初が「人に迷惑をかけてはいけません」だもんな。「家族内殺人」「就職氷河期ニートからの80-50問題」「置いてかれた子供の熱中症死」なんかも根底に「迷惑かけたくない」があるように思う。うちの子は自閉傾向だから迷惑かけてばかりの幼児期だったけど 気が付けば「迷惑かけた分 人のために」だったり「助けてあげたいと思われるような愛らしい人間」のほうが楽しい人生なんじゃないか、なんて考えるようになった。「母ちゃんもこれまで色々やらかしたし、本当にいろんな人に世話になったよ」と。
22日「動画を見たら、にゃんこ先生が必死に語りかけていた。『日本を守るために、自殺者を増やさないために、(気を付けながらも)普通に生活を続けて下さい!』と。泣きそうなほど必死に」
翌年届いた葉書によれば、Mが亡くなったのは11月9日だから もうすでにこの世にはいなかったってこと、悲しく、苦しい。
私は11日「年末会いに行くよ。飛行機予約したよ。体調良ければ連絡ください」というような内容でLINEしていた。なかなか既読にならないから 入院したかも、それとも・・「誰にも言わないで」と言われていたのに 私はMの様子があまりに心配で23日の電話の後共通の友人に相談してしまったから「もしかして相談したことバレたかな、怒ってる?」と思い 以降連絡できずにいたのだった。

5 2020年12月
著者は11月25日から東京。
14日「午後、ひさびさにキーちゃんに会う。2~3年ぶりかも。(中略)心の範囲が広いので何を話してもすぐ理解して、答えを返してくれる。話しやすく、楽しかった。」なんか分かる。女医7人の鉄板焼、温泉メンバーどちらも同じ感じだから。50年も生きてきたお陰で会いたい友人たちは皆、私にとってはキーちゃんのような存在、心の範囲の広い人ばかり。だから日頃のニュース(犯罪や迷惑行為や中傷など)に違和感を感じてしまうのだけど。娘が落ち着いてきたから やっと友人と会えると思った矢先のコロナ禍、トンネルは思いの外、長い。
年末の帰省。世間は急遽のGoTo停止で大騒ぎだった。私はMに会うため28日夕刻仙台空港~ホテルメトロポリタン泊。29日は山寺観光(ほぼ雪山登山)して蔵王温泉に宿泊。コロナ前は年末の蔵王なんて予約がとれなかったから。30日再び仙台に戻り夕方の常磐線で実家に。
ずっと気になっていたいわき以北の常磐線、やっと開通したけど仙台を出て間もなく日没となり、かつて暮らした南相馬市も、帰宅困難区域も、真っ暗で何も見えず、涙。真っ暗闇に駅の灯りだけ、という宮沢賢治の世界のような不気味な車窓が続いて、3・11が悔しくて、涙。かろうじて見えるのが、黒い袋(除染後の)ばかりで、それもびっくりするほど大量で果てしなくて、涙。
Mには28日の夜か30日午後に会いましょう、と連絡していた。言い訳になるけれど「怒ってる?」「体調不良だったら申し訳ないな」で、直接電話もできずに 雪の仙台駅で家族4人、3時間以上も時間を潰してしまったのだった。Mからの連絡をほぼ諦めてはいても、心のどこかで待ちながら。

6 2021年1月
13日「今日思った重要なこと。想像でアドバイスしてはいけない。(中略)特に話すのが上手な人や教える立場にいる人などは、何を聞かれてもまるで知っているかのように話す。(中略)そういうアドバイスが世界を複雑化させてしまうのではと思う。しかもそういう教師的気分の人たちは自分が実は知ってもいないことを話しているってことに気付いていない。」
私が看護学校の講義が苦しくて 5年で辞めたのも これかも。人前で話をすることが苦手だから我ながら5年は、なかなか頑張ったと思うのだが。
また外来をしていると数年でなんだか居心地が悪くなるのもそのせいかもしれない。職業柄、事実を話すと心がけていても 気付けば「私はこの先どうなりますか?」的な患者さんが紛れ込んでくる。繰り返しになるが、ケガや病気なら教科書に予後も経過も書いてあるし、私なりの経験はある。しかし整形外科の多くが加齢変化+使い方だから、この先は?と聞かれても人それぞれだと思うし、想像でものは言えないのだけど。逆に先のことを自信満々に話せる人は詐欺師?か、ものすごく想像力豊かな人間なんだろうと思う。
お正月。
実家の初日の出は 祭り(例年なら裸神輿が海に入る光景がテレビで放送されてた)はコロナ自粛だったけど 海岸は結構な人出。でも皆静かにソーシャルデイスタンス。
高齢の両親のもとに長時間の滞在は禁物だから元旦、横浜に移動してサウナーの夫のためにスカイスパ。夜景を楽しみつつ船で中華街へ。元旦は休業の飲食店が多いだろうから、中華街なら大丈夫かと考えたのだけど、年始休業なのか夜間営業自粛か、店も人出も少なかった。
翌2日は羽田~セントレアの飛行機が夕方だから海保オタクの息子のために横須賀へ。横浜駅東口の相鉄フレッサホテルをチェックアウトすると ちょうど箱根駅伝が通過する頃。観戦は自粛して、とのことだった。しかしせっかくだからと 駅前の喫煙所から遠目にチラッと。
私にとっては二度目の横須賀。前回は 米軍(ベース)で医師として1年限定の研修をしていた友人を訪ねて。基地内は完全にアメリカだった、懐かしい。駅前のバーガーキングで遅い朝食の後 艦船三笠、軍港クルーズ、カレーバイキングと満喫。横浜を経由して(コインロッカーに荷物あり)京急で羽田空港へ。カレーを食べ過ぎて空港グルメが楽しめず 残念。もしかして海外帰りの人と同じ飛行機だったかしら、とドキドキしながらの帰宅。
1月7日(木)首都圏に緊急事態宣言と書いてある(確か2回目)。そして成人の日3連休が明けて12日の火曜、数日ぶりの郵便物、その中にMの死を知らせる葉書はあった。
2年以上経つけど その日以降のことは何も思い出せない。ただ一つ覚えているのは友からのLINEに「私たちの人生まだまだ続くよ」と、その一言に救われた、ということだけ。それほどの絶望感。

7最後に
1月28日 著者はスーパーで買い物。「ベンチでお弁当を食べているおじさんがいた。悲しそうに、寂しそうに見える。」と書いている。なぜ、黒い服だったから?派手な色だったら、変わった人、と思うだろうな、と。
そして「みんなが、世界中のみんなが、ひとりでいても寂しそうに見えなければいいのにと思う。」と。
銀色さんはきっと、2020年10月孤独に気付き、そのあと何度も孤独感について考えたから、その出来事を題名にしたんだろう、と思う。






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