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物事にたいする時間の見方は人によってちがうが、どちらでもいいのだ。

5年である。5年がたった。瓦礫の町は片付けられ、復興の足跡は着実に踏まれている。

さて、この震災と、もしくは何か出来事があったときから数えて数年がたつと人々のなかにはある言葉でそれを表現する。
それにまつわる考えを書き留めておく。

「○○『しか』~~『ない』」は現在から過去を見ている。

グラスにはいった半分の水をどう表現するか、ということにもこの答えが使われる。
「グラスには半分の水しかはいっていない」という答えがある。

それもひとつの見方であり、答えになる。
それはなぜか、その人のグラスの中身はすべて入っていた時間をいれて話をしているからだ。
半分の水がグラスにはいっていないことだけを知っているなら、その水でなにができるか考えるが、たっぷり入っていた水のことを知っている人は、それしかないよという。

これは出来事があったときにも使われるのだけれど、みんなが知っている震災のことを考えるとき、
5年しか経っていない」か、「5年も経っている」というのではずいぶん感じかたが違う。

「5年しか経っていない」と言ったとき、その人はその5年間を辛いことも楽しかったことも含めて大体の部分を思い出している。
いわば過去の出来事からそんなに時間が経っていない、すぐ後ろにそのことを思い出している。
過去に引きずられて現在を認めたいけれど認められない、というような印象を持つ。

ずっとそこにいたので、変わっていく景色を変わらない思い出のなかの景色と重ねたときに人は悲観して、「5年しか経っていない」と言葉が出てきたのだ。

「○○『も』~~『いる』」という言葉は、現在から過去を見たあとに未来を見ている。

一方、先程もいったが「5年も経っている」という表現になると、少し様相が変わる。
このなかにはもちろん過去も入っているが、それを含めて未来を語ろうとしている

震災も過去に起きた出来事としてそれに悲しむ人もいることを知りながら、「5年も経っている」という人は、「これからどうするか」が含まれている。
過去にばかり縛られず、過去からなにかを受け取った人はこのような表現になる。

過去を見ているのはどちらも同じであるが、そのとらえかたが違う。
重く受け止めて縛られるか、それもあったと半ば軽く受け止めて次にまわすか。

グラスのなかの水を半分も入っていると思う人は、「これでなにができるか」を探す。
喉を潤すか、畑にまくか、野菜をゆでる水の足しにするか、薬を飲むときに使うか。
水を活用する量はそのままでも、足しても引いても水は水である。
そこに気づいていくらでも活用できる人は、場合によっては「半分もあるじゃないか」と表現する。

表現の方法はどちらでもいい。
その時は5年しか経っていないといってもそう思って受け止めていたのだし、5年も経っていると半ば軽く受け止められることもある。
その時の気分次第であって、咎められることではない。
縛られずに生きても、縛られて生きてもどちらでもいいのだ。

時間が過ぎれば、気分が変わって受け止めかたも変わる。
その時は別の言い方をすればいいだけである。

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