あなたは”ゼロ”ではない。
就職も、生活も、仕事も、家事も、育児も、誰かといっしょで、誰かがいっしょだ。
最初から「無価値」なあなたは存在しない。
人は生まれたときから誰かがそばにいたのだ。
母親が最初であって、ここまで生きてきたのだ。
ならば、生まれていたその場所でだれかがあなたに感謝をしている。
生まれてきてくれたことを感謝で祝福してくれたのだ。
ひとは、存在自体が無価値ではなく、利用できないあなたを無価値だとしたのだ。
だから、なにかで無価値だと言われたのなら、それは存在ではなく、なにができるか、を問われているだけなのだ。
あなた自身が、無価値なのではない。
あなたが幸せであることを誰も咎めない。
あなたがみつけた価値のありかは、あなたしか知らないのだ。
だから、それはあなたが大切に扱うもので、不確かな価値を見極めている証拠なのだ。
一冊の本がある。
だれも手に取らないその本を、あなたがみつけた。
あなたがその本をレジに持っていくだけで、その本の価値はそこにあったのだ。
ネットでは「人のなにができるか」を表現する場所がある。
私はこれができる、僕はこれができる、そんななかでネットの世界は広がるのだ。
その中では憤怒も表現される。
怨嗟も表現される。
喜怒哀楽のすべてを網羅して、表現されて、閲覧される。
見たい人はそれを掴む。なにを掴むかはその人の自由だ。
幸せを掴む人の生き様を選び、落ちこぼれていく人の生き様を選び、嘲笑って、静かに怒って、幸せであるよう願って、面白かったと言って笑って、また活動してくれることを応援したり、その活動を止めるよう妨害したり。
それでも、人は生きていく。
その人の幸せを阻害するのは誰の権利でもないのだ。
静かに見守ることができるか、できないか。
人は誰かの生き様を羨ましいと思うときがある。
自分はこれで良かっただろうかと不安に思うとき、思わず横を見てしまうものだ。
それは誰でもあり得ることだし、心の迷いを解消するのには一つの手段である。
ただし、そのひとの生き様はそのひとが歩んできた一本の道である。
だれでもそこに土足で踏み込んではいけない領域があるのだ。
そこでは笑っていたときもあっただろうし、泣いていたときもあった。
だれかに寄り添うときも、寄り添われるときもあっただろう。
いずれにせよ、そのひとがどう思うか、という領域には土足で踏み込んではならないのだ。
考え方を強引に変えることは、大人であっても子供に強制を強いるのはどちらも辛いように。
それは、強くそのひとをそのひとたらしめる要素の排除を行う行為であって、そこでは人格の無価値感をそのひとに与えてしまうことになる。
それを行った結果、そのひとが一切の考えを放棄しても、あなたがその責任をとれやしないのなら、強引なひとつの思考を改めさせる行為はそのひとを殺してしまうのだ。
利用するだけ利用して、あとは知らぬとモノを捨てる行為と同じことをひとにもするということは、捨てた本人の価値観が歪んでいるに等しく、その人からは離れたほうがよい。
あなたの価値はあなたが知らずして、人に触れてからわかるものではない。
これから、ひとがいなくなる。
人口減少が始まったということは、おじいちゃんおばあちゃんの寿命が近づいている。
わたしたちがその後を担うのならば、いま、自分になにができるかを問わなくてはならないだろう。
自分の無価値感に苛まされていることは自分の能力に懐疑的である。
それでは、だれでもあなたの能力を十分に使ってくれはしない。
なにをして、
なにを学んで、
なにを失敗してそこから学んだのか、
一番楽しかったことは何か、
一番辛かったことは何か、
これからやりたくないことは何か、
なにをすれば楽になるのか、
なにが一番自分を発揮できるか、
なにで自分は他人に覚えられたいか、
を自分に問う。
自分が一番後悔したくないことは何か、とともに。
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