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ボランティアの思い出

 私が初めてボランティアをしたのは大学生の時で、障害児キャンプのボランティアだった。夏に海辺の施設で、障害を持った子どもやその家族が、海で泳いだりキャンプファイヤーや自然観察をして過ごすことのお手伝いをするボランティアだった。

 奇跡的に志望の大学に受かり、地元を出て一人暮らしが始まって、私は極端に少ない人間関係の中にいた。名前と顔を知っていて言葉を交わす知り合いは、片手どころか三本の指に入った。
 初めての夏休み、バイトの面接も受からず、授業のない時間をどう過ごそうかと思っていたところ、会話らしき会話が出来る唯一の人間が、キャンプのボランティアで夏じゅう田舎の海へ行くというので、誰ともまともに話さない日々が2カ月近く続くことに恐怖した私は、一緒に付いていくことにした。

 その人は、私から見てそう明るく人懐っこいタイプでもなかったが、キャンプリーダーとしてそれなりの役割を果たしていた。私は、泳げないし知らない子どもと仲良く遊ぶなんて全く無理、と思っていたので、布団を干したり部屋に掃除機をかけたり、早く起きて十数人の朝食のパンを焼いたり、そうめんを茹でたり数十本のキュウリを千切りにしたり一時間以上かけて玉ねぎと人参とジャガイモの皮を剝いたりした。
 黒子として、誰の印象にも残らずそれなりに役立つ人として過ごして、食費を浮かし無事家に帰れればいいなと思っていたが、キャンプネームが与えられ、「〇〇さんところの子ども見てて」「今日海に行けない△△さんが暇そうだから相手して」「人足りないから、次のゲームに参加して」という先輩の指示で、子どもの前にも出された。
 贔屓目に見て、私は黒子としては中の上だったが、子どもの前では下の下だった。どうやって子どもと遊べばよいのかわからないし、「そういうの苦手」という態度を隠す努力もあまりしなかった。そういうの、とは、子どもやほかの大学生ボランティアに積極的に働きかけて場を和まそうとする動作のことである。

 食事の支度や掃除をしながら一カ月ほど過ごした間に、宿泊施設の近くの海岸沿いを夜に散歩したこと、砂浜に座って夜の波打ち際をずっと眺めたこと、朝靄の中の農道を部屋に飾る野草を探してプラプラ歩いたことを覚えているし、先輩ボランティアの大学生がなかなか輪に入らない私を気遣ってくれたこと、帰り際に子どもやその家族がありがとうと言ってくれたことも覚えている。もう少し自分が思ったことを言ったりやったりすれば良かったなあ、と思うし、良い思い出かと聞かれると、あまり手放しでそうとは言えないが、なにせ昔のことなので、そんなこともあったな、という程度である。ただ、この時出会った子どもやその家族と交わした言葉が、今の自分に間違いなく繋がっていると思う。

 子どもが海に泳ぎに行ったりオリエンテーリングなんかをしている時間に、私は各部屋の砂っぽい畳に掃除機をかけていた。そこで海に行かずに部屋でくつろいでいたマユミさん(たしかそんな名前だった気がするが違うかもしれない)に会った。
 マユミさんは、障害のある妹とここ数年毎年このキャンプに来ていて、私にもいろいろと話しかけてくれた。私の名前、キャンプネームだが、も覚えてくれて、滞在中会うたびに声を掛けてくれた。特別なことを話したわけではないけど、妹が障害を持っていること、マユミさんはどう思っているんだろうか、と私は思っていた。ボランティアに来ている、マユミさんとそう年齢も変わらない大学生のことも。もちろん、そんなこと聞けないし、聞いて回答をもらっても、なんとなく成り行きでここにいる私には受け止められないだろうと思った。私はこのキャンプで「きょうだい児」という言葉を知った。

 私がこのキャンプにボランティアとして参加したのは、その夏だけで、理由はこのキャンプに参加するきっかけとなった人間と疎遠になったからである。
 冬を迎えるころには、大学の同じ学科に仲の良い子が出来、家庭教師のバイトにも行くようになった。子どもと遊ぶのはどうしたらいいかわからなかったが、子どもに勉強を教えるのは楽しいことを知った。  

 こんなことを思い出したのは、『Codaあいのうた』を観たからである。家族の中でたった一人の健聴者である少女の話。何人かと一緒に見たのだが、私の前には病気療養中の方とその付き添いのご家族が座っていて、映画の内容も相まってマユミさんことを思い出していた。
 映画はとてもよかった。少女の勇気がほかの人の勇気に繋がって、とても嬉しかった。彼女の勇気も素晴らしかったし、彼女の周りの誰もが、それぞれ自分の勇気で立ち向かっていて、元気が出た。あの夏、マユミさんが何かと私に話しかけてくれたこと、本当に感謝している。