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「自信」の「自」の正体。

前日
「自信」が有るか無いかは
成功や実現に全く関係がない
ということについて書きました。

今日は、その続き、というか
じゃあ「自信」ってなんやねん

みたいなところを
お話していきたいな〜と
思います。


みんなの思う「自信」とは?

自信について考えたことは
あるでしょうか?

当たり前レベルに
自信は無いよりあったほうが良いって
それこそ「信じてる」人は多いし

「自信がない=ダメ人間」

くらいに思ってる人も
多いのでは?

「自信」の「自」って
「自分」とか「自己」って
いう認識でしょうか?

じゃあ、「自分」とは?
「自己」とはなんでしょうか?

これを読んでいるあなたにとっての
「自分」
「自己」
とはなんですか?

それが、他者や関係性という
「縁起」から切り離して
捉えている

「自分=セルフイメージ(自我)」

のことならば、それは
信じなくてある意味正解です。

もし、その自分を信じる、と
いうならば

それは、自信、というより
そのセルフイメージ(自我)への
「依存」です。

*それを否定するわけでは
ありません。
そういうフェーズも成長段階で
必ずあるので。


「自信」の「自」は「自他」のことであり縁起のこと

これも、わたしの「実感」なので
どうかご参考までに読んでください。

わたしの思う「自信」の「自」は
わたしを、わたしとして存在
させてくれ、わたしという存在を
認識させてくれる他者の存在や

わたしを生かしめてくれる
あらゆる命、おかげさまを
表していて

これら総じて「縁起」そのものを
わたしは信頼しています。

そういう意味の自信はある。笑

なんだろうな
信じている、というか
委ねている、というか。

信じる、と委ねるは
もはや同義語のような感覚です。

時間軸においても
過去には感謝しかないし
未来には祝福しかない。

縁起に全てを委ねて
明け渡している。

信頼の海に漂い寛いでいる。

そのような感覚です。

そう思うと
自信がある、と思わなくて
良かった、思えます。

エゴのわたしが自信があると
勘違いしていたら
きっと鼻持ちならないマウント
野郎になっていただろう。。。

ポンコツで良かった。
車の運転ができない自分でよかった。
1人で移動できない自分でよかった。
やりたいこと以外できない自分で良かった。

退屈に感じると意識が
遠くに飛んでしまう自分で良かった。
人の話をちゃんと聞けない自分で良かった。
3分前の話は過去になり記憶から
消去されてしまう自分で良かった。笑

そんな自分のことは全く信じられんがw

そんなわたしだからこそ
関わってくれている尊い仲間の
存在や、出会わせてくれたご縁に
ありがたさしかないし

そこは絶大に信頼がある。

そういう意味の自信は絶大だ(^O^)/



そうそう、余談だけれど

「縁起=自分」という在り方は
才能やそれによって得ることも
分かち合いや巡環が前提になり

「自分のもの」
「所有している」

という所有という概念からも
解かれるのです。

いま、時代的に

「所有を手放そう」と言われたり
しているけれど、これは

「自分=縁起」の次元に
達さない限り、言葉としての
「所有を手放す」は理解できても

全く実感の伴わないただの
「言葉」になってしまいます。

そういう意味で
在り方の体現者として
仲間たちの環境で在ろうと思うし

自分自身も慢心せずに
在り方を磨いていきたいと思う。










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