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安土城跡の思い出
日本で最初の「天主」を持つ城
安土城といえば織田信長が近江の地に築いた、日本で最初の高層の城郭として有名です。
それまで日本で城といえば主に平城で、主に戦争の拠点として築かれるもので作りも平易なものが多く、現在城と聞いてイメージする城とは随分違い、それを最初に作ったのが信長だったということです(高層の城郭としては坂本城の方が先だったという話もありますがどっちにしても信長が作らせています)。
ちなみに現在日本各地に残るいわゆる「城」は人が生活するためのものではなく、藩主は屋敷や江戸の藩邸などに住まうことが多かったらしいですが、安土城は信長が実際住んで生活していたそうです。もちろんずっとではないですけどね。
安土城に関しては、坂本城、大溝城、長浜城で琵琶湖を湖上交通で結ぶ港としての役目もあったことや、その石垣に使われた石材が信長に逆らった寺院などから略奪されたものであったこと、大坂城に与えた影響などからも様々語られますが、今回は自分自身の安土城跡の思い出を書こうと思います。
見出し画像は2015年5月に撮った安土山登山口です。
新緑の美しい時期で観光客も多く賑やかでした。
以下同じ日に撮影したものです。
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平成に入るまでは「ただの山」だった
今となっては整備されて観光地然としていますが、私が高校生くらいの頃までは「安土城趾」という看板があるだけの、ほぼだだの山でした。
安土城があるのは現在は近江八幡市(もとは蒲生郡だったが平成12年ごろ近江八幡市となる)で、位置は東近江市とのほぼ境目、目と鼻の先に近江守護だった佐々木六角氏の居城だった観音寺城を擁する観音寺山があります。
そしてその麓には、近江商人の故郷として有名な五個荘町があります。
安土城は、明智光秀とは関係なく信長死後に何度か火災に見舞われ、城が再建されることもなく朽ちるままにされ、何なら一部埋め立てられその上に寺院が築かれたりして、昭和初期に再び日の目をみるまで放置されました。
しかし、結果的にそれが日本で最初の天主(安土城に限っては天守閣でなく天主と言う)をいただく城としての往年の姿の再現を可能にしたのでした。
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安土築城当時は周辺は内湖で覆われ(現在は干拓、埋め立てられている)
まさに湖の城だったそうです。
昭和の終わりごろの安土城趾の思い出
私が小学校3年生くらいのとき、バス遠足で当時の安土城趾を訪れました。
当時の安土城趾は史跡としてそれなりに知名度はありましたがお世辞にも綺麗とは言えず、バス用の広い駐車場とトイレがあるだけで、登山も獣道のような藪の中の細い道で、そのところどころに信長に仕えた武将たちの邸宅跡の碑が立っていました。
しかし当時の私には逆にそれが印象的で、かつて栄華を誇った城がここにあり、名前を聞いたことのある武将たちがここに居を構えていたのだと思うと、その草むらにすらロマンを感じたのです。
芭蕉みたいな事思ってたね。
で、その放置された城跡がずっと心に残っていた私は、どういうタイミングだったかは忘れましたが、高校生になったころに再び一人で安土城趾を訪れることにしたのです。
現在のようにネットも使えず、詳しい位置なども不明でしたが、安土駅で降りたら何とかなるだろうと思ってリュックと写ルンですを持って電車で単身向かいました。
駅は最近新しくなりましたが、趣のある古い駅舎でした。
当時は観光案内所やレンタサイクルなどあろうはずもなく、安土城の位置を示す看板を頼りに進むしかありませんでした。
安土に行ったことのある方ならお分かりかと思いますが、安土城趾は駅から歩くとけっこうな距離で、しかも人が歩くような道もろくになく(県道二号線沿いにあるが二号線自体がとても狭く歩道はほぼない)最初に行き方を知らないとけっこう大変です。大人だったらタクシーで行けましたが当時は電車代もギリギリだった高校生なので歩くしかありません。
結局は、駅からの大通りを辿って二号線に出て、半信半疑で狭い道を車におびえながら歩いてなんとかたどり着きました。
その当時、二号線沿いに喫茶店があったのを覚えていたんですが、つい最近まで建物は残ってて感慨深かったです。
最近になって取り壊されてしまった模様。
たどり着いた安土城趾はかつての姿のままほかに人もなく、土がむき出しの駐車場が日に焼かれてすさんだ雰囲気を醸していました。
あるのは相変わらず小さな公衆トイレだけ。
そんな中草をかき分け山に入る私。
現在のような立派な大手道はなく、頂上までたどりつけたかどうかの記憶もありませんが、草むらの中の「森蘭丸邸跡」の立て札と、その敷地の狭さが印象に残っています。
当時持参した写ルンですで写真を撮ったはずなんですが、それが今はどこにあるのか…逆に面白い記録なんじゃないかと思うんですけどね。
安土には最近になって仕事の関係で近くまでよく行くようになり、この記事に使った2015年の写真はそのころ撮ったものです。
安土山もですが、私はその先にあった観音寺山のたたずまいの美しさに惹かれ、その反対向こうにある五個荘で近江商人のルーツに触れ、また遠縁の親戚の出身地がその近くであった事も判明し、現在仕事で行くことはなくなりましたが大好きな土地になりました。
安土城の歴史自体はネットでも書物でも学べるようになりましたが、平成の発掘調査前の姿というのは意外と知られていなさそうなので書いておこうと思いました。
うまく伝わればいいんですが。
写真のひとつもあればよかったんですが、小学校のアルバムには残っているかもしれないので見つかったらひそかにアップしようと思います。
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