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出エジプトとヨナ 24.04.22

本日、多賀大社の古例大祭へ行くつもりでしたが体調不良で取りやめました。
昨日雨の中歩き回ったのが良くなかったのだろうか。

無職で家でまったりしてるここ数日ですが、早いうちに介護のバイト先の進退を決めなければなりません。
社会保険や雇用保険入ってもらってるわけでなく、急いで籍を抜かなければならない理由もないのですが、また復職できるかというと考え込んでしまいます。

そもそも最後の日に来週から行かないと決意したのは、社員さんからほぼ無視されたことと、以前から見知ってた利用者様に介助を拒否された事が主な原因です。
どの仕事でもそうですが、従業員同士の横のつながりは大事です。私をほぼ無視する社員さんは一人ではありません。社員さんとの信頼関係が構築できないのなら、私はもうここの施設では役に立たないのだと。
せめて利用者様の役に立てたらと思っていましたが、自分の技術が未熟で拒否られるのなら、もういる意味はないのではないかと思ったのです。
空気読まずに利用者様の話し相手など頑張ってはいましたが、一部の利用者さまが「私あの人好きじゃない」と私が介助した後おっしゃってたり、社員さんの冷たい雰囲気に緊張してかえって場の空気を悪くしてしまったりするので、これは私がいない方がうまく回るだろうと思ったのです。

リーダーさんはよくしてくれますが、一緒に入ることはほとんどありません。辞めないでほしいと言ってくださいますが、現場レベルでは辞めろと思われていると思います。
かつての自分がそうでしたから。そう思ってた方でしたから。
それが今帰ってきてるんだと思います。因果応報です。
それを私に気が付かせるためにあの職場に導かれたのかもしれません。

と、ここまで書いたところで屋根の修理をしませんかという勧誘がやってきました。
一瞬契約しそうになりましたが、詐欺の可能性が高いので後でお断りの電話を入れました。やめてくれよこのよき日に(誕生日)。
私はどうもこういうのに引っ掛かりやすい、気を付けないと。
皆様もお気をつけあれ。
それはさておき。

先日までの派遣先にしても、介護のバイト先にしても、私が力になれるのなら居座るつもりでしたが、どちらも私がいることでうまく回ってないのではないかと考えてしまうのです。
去り時なのではないかと。
こういう時私は、聖書の「出エジプト記」と「ヨナ書」を思い出すのです。
出エジプトは、最初はエジプトに客人として迎えられていたイスラエル人がいつの間にか奴隷のような扱いになり、モーセがイスラエル人を引き連れて出てゆく事をエジプトの王に告げるが拒否され、王はますますイスラエル人を迫害し、神がエジプトに災いを下された。それはイスラエル人がエジプトを出るまで続き、出てからも追いかけるが海を割って逃がされたのが映画「十戒」で有名なシーン。
ヨナ書は、神にニネべという町に宣教に出るよう命じられたヨナがそれを拒否して船で逃げたとき、その船を嵐に遭わせられ、誰のせいでこんなことになったのかをうかがうためにくじをひいたところヨナに当たって、ヨナを海に投げ込んだところ嵐がおさまったという話。
それらは神の栄光が現れるために神が起こされた事でした。

私は、仕事場で嫌な事が続くようになったとき、居心地が悪くなった時、これは私にとっての出エジプトか、あるいは私がヨナだ、私が去ればこの嵐は止むのだ、と思っていました。
かつての仕事場を去る時もだし、今回もそんな風に思っています。
私がその場を去るべき時にそれは起こり、私が去れば職場に平和がやってくる。
昔も今も、私はそう思っているのです。
そう思っているから、辞めなければいけないと思っているのだろうと思います。

介護のバイト先にそれが適用されるかどうか。
私が去ることで職場が良い方に向かうというのは都合の良い妄想なのかもしれませんが、そうでなければ何が一番良いのか。
もう少し祈りつつ考えてみたいと思っています。

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