TEN YEARS AFTER TEN YERS AFTER &TEN YERS AFTER その5
カメラマン・神山均(キンさん)は、1980年代からフォトグラファーとしてアメリカ大陸、アフリカ大陸、南米を駆け巡めぐり、自由に写真を撮り続けた。
キンさんは、初めてアフリカの地を訪れた。それまで勤めていた会社を辞めて自費での旅だった。目的はアフリカ大陸を見ること。そして、その頃、世界でも名前が知られるようになったダカールラリーの撮影を兼ねての旅だった。
アフリカ編
パリダカールラリーの話・その4
ベテランカメラマンとの話
プレスやカメラマンにとっても,ここにたどり着くまでが最初のステージだ。
ラリーと共にパリを出発したプレスやカメラマン陣も、ここに至る旅を共にする中でコミュニケーションが生まれる。
k「様々な国から来ているプレスやカメラマンと数日移動を共にしていると、この人、出来るな〜とか、色々と見えてくる」k「今でも、現場でそっちいちゃだめだろーって、勝手に規則を無視して行っちゃう奴いるでしょ」
「やっぱり、パリダカにもそういう奴がいる。そういう奴らはスペインとかイタリアのラテン系に多いのだけど、逆にスエーデンとかドイツのプレスの奴らと喧嘩になるのよ、口論だけど」
ーラテン対ヨーロッパですね。
k「そこでは,協力するのが普通だろ!とかって英語、フランス後、スペイン語、ドイツ語なんかが飛び交うわけよ」
「そうして、派閥っていうか、グループができるわけ」
ーその辺は、どこの国でも同じですね。人が集まれば自然と派閥というかグループができる。
k「俺なんかスエーデンのオヤジと組んで、結構可愛がられた。調子良かったし」
「実はこのオジサンカメラマンが、結構すごい人だった」
k「キンあそこに立ってろって!、よしわかったってんで、そっちで待ち構える。そのオヤジはベテランだから逆算してるわけ。そうするとラテン野郎がこっちに来る、そうすると時間を見ていたオヤジが、こちらに目配せするとさっと戻る」
ーなるほど、フェイントかけるわけだ。そのベテランカメラマンは、実際には、そこにラリーカーは来ないで、別の場所を通過するのを読んでる。
k「そうするとそいつは戻ってこれないって笑」「プレスにとっても冒険旅行だったね」
ここで撮った写真がこの回のメインだった。
「で、俺と一緒に組んだオヤジは、とにかく写真をとらないんだよ。俺ぐらいの怠け者でも写真撮ってるのに笑、`いーの、いーの`って。
それで、いよいよ撮影するぞって、この日に初めて、オヤジがカメラ出したんだよね。そしたら、モータードライブがついていないハッセルしか持ってないんだよ。たまげたね」
ーそれまでスタートしてからの4.5日間は写真とってないんだ?
k「とってないんだよ、文句言ったり女の話ばかりして、おかしいオヤジだったよ。」
「で、ここでパシャ!パシャ!って4本ぐらい撮ったの」
「この後、ラリーは砂漠に入って、俺らプレスは、砂漠の出口に先回りするために、ニジェールのアガデスに移動する。それでアガデスついたら俺帰るから!ってそこから飛行機で帰国しちゃった」
k「で、結果そのオヤジが撮った写真が、その年のヨーロッパでのパリダカを代表する写真になっちゃった」
「その時、ヨーロッパのカメラマンってすごいなーって学習したね。だから、それを真似するようにして、ラリー来る前に、全部地図でみて、頭の中で組み立て、どこで何が起きるかって予測をして、今年、金になる写真を撮れそうなのは、どこか?ってまで考えてきている」
k「だからオヤジは、とっと、と帰国して、マスコミに写真掲載して金にしちゃてるわけ」
キンさんはその時の経験で、商用としてのコマーシャル写真とエディトリアルや報道としての写真を使い分けることを学んだ。
そのオヤジさんは、後からきいたら本国スエーデンでは有名な新聞社のカメラマンだったらしく、その後、自分の写真を送ったりして交流を続けたけど1.2年して死んでしまったらしい。
アフリカ編、パリダカールラリー・その5に続く…。
written by J.Watanabe
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