今日の元気度 B
元気度Bの顔は絶妙だった。
近くの銭湯。20年ぶりくらいに寄ってみた。
血管推定年齢測定のおまけで、なんと元気度というめっちゃ知りたい指標までついてくるもんだから、やらない理由がなかった。
(血管年齢は+10歳くらいだった。wow。)
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緊張と緩和。
その周期が、移ろいがとても早い。
noteを感情と思考の掃き溜め、僕のエグみの居場所として用意しようと思って数日。
日々が健やかや豊かとは違う、厚い一日になっている。気がする。
2年前くらいに認めていた《したためていた》下書きを見るのも面白い。
うつ(と社会的には呼ぶらしい)や休職や、髭や、自棄や、ロン毛や、青髪や、改心や、恋や、風を経験してもなお、自分というものはそう変わらないのだと。
今日は仕事が休みだったので、盛りだくさん。
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何かを要求される時に「〜でもいいよ」って言われるとどうしたいのかを言えよって思う。
幅を持たせることは、優しさではなく無責任に近い。任せるなら全て任せて欲しいし、本心があるなら伝えて欲しい。
保守的に関係を保つことの恒久性は、人生という尺で見ると刹那にすぎない、と感じてしまう。
たかが20数年の命ですが。
本音が知りたい。
へぇって言わせてよ。
裸の付き合い、というのがあるが僕が対話に求めるのはこれかもしれない。
上べで取り繕った会話で湖面に出来た薄氷のスケートリンクを滑られるより、ゆっくり編んで繰り出された重みのある言葉と、僕は湖に潜りたい。
視覚的に似たような感覚を覚えるから、銭湯や温泉は好きだ。隠しようがない。
みんな素っ裸でほげーって顔してる。
涼しくなってきたのもあるが最近やたらと行きたくなる。
湯船にはあまり長く浸かれないが。
例えばsexはどうだろう。
文字通り裸の付き合いだからこその共鳴があるのだろう。
上手い下手は少なからず関係があるのだろう。
子作りとか、義務感とかじゃなく、愛を交えることはどれだけ甘美なのだろうか。
添い寝をしながら、核心に満ちた話をしたら、引かれるだろうか。
夜は、終わってしまうのだろうか。
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笑うことを安売りしないで過ごしてみたら、人生は幾分か豊かになるだろうか。
笑うこと、笑わせることに重きを置きすぎて、そこがスタートラインになってしまった。
僕は結構、絶望に満ちた時の自分の眼が好きだ。
眼力がつよいから、光を宿す時との差が余計に激しい。
眼の色が灰色に近い茶になった時、俺、になれた気がする。
俺、になっても変わらずともに過ごしてくれる人はいるだろうか。
放っておいてくれる人はいるだろうか。
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僕は自分を観察してくれる人が好きなのかもしれない。
観察して、放っておいてくれる人。
理解をしようとはしてこない人。
たまに分析をしてもらうのは楽しいかもしれないけれど。
僕にとって波は人生のキーワードだ。
尾道の海をぼーっと眺めている時に見た漣《さざなみ》は僕には社会をうつしているように見えた。
水面下には抱いている思いが隠されていて、その表出として水面に現れ、波となる。
一つ一つの波自身は風に煽られ、進むべきと思わされている道を突き進む。
連なって漣となる。
風がやめば、社会は穏やかなものだ。凪。
しかし、漣同士がぶつかり合ったり、風向きが変ったり、船が動いたりするとあっという間に方向を変える。
大勢が変われば、社会が変わる。
正しさが変わる。民意が変わる。
自分が、変わる。
(漣という字は今時分、初めて知ったが、水が連なってさざなみ…だと…。自分の感性が、やはり先人の手中にあることに、絶望と漣の一部であることを感じる。)
感情の波も激しい。特に表情への表れ。
ひとり乗りの舟でも操縦できないのに、他者と生きていくのはしんどいわけだよ。
波とどう向き合うか。
受け容れる、受け流す、眺める。
絶望を愛し、希望を疑って生きていく。
頼むから僕の興味を、病んでいる、で片さないでくれよ。
俺です。どうぞ、よろしく。
〈今日の一曲〉光と影/ハナレグミ
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