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途方もない闇

髙島野十郎の絵には、途方もない闇がある。

九州の久留米にある酒造家に育った野十郎は、画壇と交わらず、一人で描き続けたため、見る者に媚びる姿勢の一切ない絵描きだ。写実的で緻密な絵を描くが、現実ではない何物かを絵の中に封じ込め漂わせている。私はそれから目を離せず、いつまでも絵の前で佇んでしまう。緻密な描写の中に、野十郎は何を封じ込めたのだろうか。

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例えばそれは、何でもない野辺の景色や廃屋を描いた中にあった。廃屋の、すこし開かれた戸の奥にある室内の暗闇、そこから目を離せない。何があるのかは外が明るいため見えないのに、廃屋の室内に何かが描かれている、そう思えてならない。

あるいはそれは、雑木林の池の中にもある。黒く濁っていて何も見えないはずなのに、そこに気配を感じる。目が吸い寄せられて、その暗さに没頭してしまう。

髙島野十郎は、蠟燭の画家とも呼ばれているらしく、後年たくさんの蠟燭の絵を描いては知人に渡したという。また、月の絵も多かった。曰く、いずれも光ではなく闇を描いたのだという。正直、蠟燭や月の絵に描かれた闇については、あまり惹かれなかった。私は、風景を描いた中にある暗さに途方もない闇を感じた。描こうとしたわけではなく、染み出してしまったもの。それは野十郎の誰ともつながろうとしなかった生き方に象徴されるような闇で、ひとりで抱えた孤独にまとわりつくものかもしれない。

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野十郎の絵を知ってから、山で見た巨木に野十郎の絵の雰囲気を感じるときがある。うねうねとした枝は、風にしなる姿だなと思う。絵は瞬間を切りとった静止画だと思われがちだけれど、数秒間を写した短い動画のこともあるんだな、と思い至った。

まだ学生の頃に「バテシバの水浴」で初めて“1枚の絵”に出会って、約15年ののち、髙島野十郎に出会った。世間の評価がどうであれ、“1枚の絵”の前で心を鷲掴みにされその中に没頭できるのは、とても幸運な出来事だと思う。そう、まさしく僥倖だ。展覧会があれば、遠くても必ず見に行く。見に行かずにいられない。

↓髙島野十郎と出会った展覧会(2015~2016)


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