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『気まぐれ美術館』と東北への旅のこと①
9月の終わりに、東北へ行った。
いちおう山も登ったけど、絵を見に行く目的だった。新型コロナで自粛し始めたころ、洲之内徹さんの『気まぐれ美術館』シリーズ全6冊に没頭していた私は、シリーズ最後の『さらば気まぐれ美術館』を読みながら、
そうだ、酒田へ行こう
と思い立った。酒田がどこかも知らずに。
『気まぐれ美術館』の中の酒田の印象は、新潟から海沿いの道を北へ進むと、海辺に並ぶ墓地があり、かつての洲之内さんが絵をめいっぱい積んだ車を停めて、墓の向く方向、つまり海へと煙草を吹かして佇んでいる、そんなイメージ。
洲之内さんが亡くなってから三十年以上経つので、海辺の墓の雰囲気はもうないかもしれない。それでも行ってみたくなった。それから、その土地に生きていた小野幸吉という画家の絵を実際に見てみたかった。
小野幸吉。
20歳で亡くなった山形県酒田の画家。
洲之内さんは『気まぐれ美術館』シリーズの中で何度か小野幸吉について書いているが、私にはそのどれもが深く印象に残り、忘れられない。
洲之内さんは画商なのだが、とある公募展を見たあとでこう述べる。
うんざりするほど絵を見てきたばかりというのに、却って、絵を見たいという烈しい渇きのようなものに襲われる。絵とはあんなものじゃない、あんなものじゃないと思う。
--『気まぐれ美術館』小野幸吉と高間筆子
そして小野幸吉の絵を見た洲之内さんは、そのとき受けた感銘を、“正直で率直な魂”、“芸術と人生への無垢な信仰”という言葉で表し、こう続けた。
私が渇き、たえず求めているのが、小野幸吉たちのそれではないだろうか。たぶんそうなのだ。その証拠に、酒田から帰ってきて、気がついてみると、とにかくその渇きがとまり、絵に対する信頼感のようなものが、再びこの私の裡に甦っているのであった。
--『気まぐれ美術館』小野幸吉と高間筆子
私も、何かに飢えていた。
率直で無垢な、確かなものを見たかった。
小野幸吉の絵は山形県酒田市にある本間美術館に所蔵されているらしく、展覧会の内容は、「日本近代美術展―大正・昭和の洋画家たち―」だったので、まさか地元の画家の作品がないとは思わずに、はるばる九州から東北へ旅をした。
ほんと、まさか小野幸吉の絵が一枚も掛かっていないとは思わなかった。
たしかにいい絵はたくさんあった。長谷川利行さんの絵や、松田正平さんのばらは特によかった。でも本間美術館よ、地元の画家の作品は常に掛けておくくらいの気持ちがあってもいいのではないか。一枚でいいのだから。
この旅は小野幸吉の絵だけが目的だったわけじゃなく、月山にも登ったし、クラゲで有名な加茂水族館も行ったし、宮城県美術館では洲之内コレクションと呼ばれる『気まぐれ美術館』シリーズに出てきた数々の作品も見れて、相当に良かった。写真撮影も可能だったので、お気に入りの絵は私のスマホの待受画面になっている。
私は本間美術館に期待しすぎていた。なぜなら洲之内さんも本間美術館の展示は工夫されていてとてもいい、と言っていたし、何十年経っても、美術館の性格はそう変わるものではないといいように考えていたようだ。
それでもまたいつか、酒田へは行く。
小野幸吉展のときかもしれないし、ただ山に登るだけかもしれないけれど。
加茂水族館から見た海辺の風景。
遠くに鳥海山が見える。
加茂水族館の満足度は高かった。
平日でもそこそこ人が入っていて人気だった。
宮城県美術館のことは、また別の日に書こうと思う。
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