見出し画像

【ミュージカル】『イリュージョニスト』の門出に花向けの言葉を

その日、朝からふっと聴きたくなって、ミュージカル『ジキルとハイド』のサントラを聴きながら劇場へ向かいました。
『イリュージョニスト』のovertureに『ジキハイ』とは、我ながらなかなかイイ感じのチョイスなのではないかと思います。

『ジキルとハイド』もそうですが、善と悪のような相反する2つの概念を扱った芸術作品は沢山あります。真実と嘘、愛と憎しみ、完全と不完全、戦争と平和、親と子、赤と黒、西と東。。相反する二つの概念が交差したり、相入れずにぶつかったり、人を狂気に陥れたり。

二つの対立概念によって炙り出されるドラマを描くタイプの作品は、ジャンルに関わらず、アートに携わる人なら誰しもが一度は描いてみたい物語なのかもしれません。一方で、この手のプロットは、結論がでないまま不完全燃焼で終わるテーマでもあります。だからこそ、手を替え品を替え、名だたるクリエーターが果敢に挑み、良作が産み出される確率も高い。相反する2つの概念に挑み始めた時から、すでに狂気の始まりなんじゃないか、と思ったりもします。

その狂気の始まりに立ち会う事ができた『イリュージョニスト』初日。前のnoteにも書きましたが、途中、体調不良で幽体離脱気味だったので、完全なるレビューは他の方にお願いするとして、私なりの「不完全なレビュー」という事で、感じた事をいくつかメモしておきたいと思います。

妥協なのか選択なのか

公演の形式を変えて上演。

この決断は、本当に凄いことだったと思います。
キャストの変更に、お稽古の中断を余儀なくされ、公演自体の期間短縮、さらに上演日のチケットも売り止め。

もう、ビジネスとしては満身創痍で、採算度外視なんてレベルではない。「とにかく初演の実績だけは残すのだ!」というカンパニーのプライドだけで、なんとか幕を開けたというのが、今回の公演だったのだろうと思います。

「ミュージカルコンサート」という形式は、ブロードウェイやウエストエンドではよくある公演スタイルです。
本番よりは簡易なセットや衣装で、セリフはストーリーがわからなくならない程度まで減らし、歌をメインにした、言ってみればダイジェスト版のような公演。

古いミュージカルのミュージカルコンサートでは、今の旬の俳優さんをキャスティングしたり、一夜限りで初演時の俳優さんが再集結して上演されたりもします。本公演に先駆けて、宣伝と様子見を兼ねて、あえてミュージカルコンサート形式で上演する、という事もよくあります。ステージだけでなく、スタジオで収録したものをテレビで放送したり、DVDになったりもしていて、表現形式としては広く社会に受け入れられています。

日本ではあまり耳慣れない型式なので、今回の『イリュージョニスト』に関しては、間に合わないから、省エネバージョンにしたんだなとか、苦渋の決断とか、やむを得ない「妥協」というネガティブなニュアンスで捉える方も多いと思います。でも、作詞家のマイケル・ブルースさんも舞台挨拶で「World premiere」という言葉を使っていらっしゃったように、特別の機会だし、こういう形式での上演というのも珍しい事でもないのかなと、個人的には思いました。

とにもかくにも、どんな形でも、幕を開けるという「選択」をしたカンパニーの皆様の英断には敬意しかありません。コンサート形式とはいえ、衣装は本番用に製作された豪華なものだし、生オケだし、舞台セットは1パターンだけのお披露目だったけれど、照明の効果もあって、雰囲気は充分伝わってくるものでした。限られた条件の中で、できる限りの精一杯を観せて頂いたという実感はありました。

表に見えないものと見えるもの

まず、全体な印象として、非常によく出来ていて面白い芝居でした。そう感じる事ができた大きな理由は、なにより翻訳が素晴らしかったからではないかと思います。

とにかく、セリフの多い芝居で、ストーリーも複雑なのに、最小限の語数で上手に訳してらっしゃる。
また、訳詞も自然で、日本語が乗せにくい三連符や6/8拍子の曲も多いのに、字余り字足らずもほとんど気にならない。それでいて、ちゃんとストーリーがわかる!簡単そうで、なかなかの偉業だと思います。

日本初上演の作品って、翻訳がイマイチなのが多いのですが、『イリュージョニスト』に関しては、むしろ翻訳モノである事を感じさせない。翻訳を担当された市川洋次郎さんは、表には見えないところで良い仕事をされた、まさに影の立役者だと思います。お名前を覚えておかなくては!

個人的に幽体離脱してしまった事もあるけど、日本でもいつか必ずフルバージョンで上演を観たい。この翻訳は、ぜひ多くの方に観て欲しいポイントのひとつだと思います。

と同時に、英語版も猛烈に観たくなりました。特に歌の歌詞がきっとお洒落でいい感じに違いない!と勝手に妄想が暴走してしまいます。いつの日か、いつの日か。私がウエストエンドまで観に行くのが早いか、来日公演で観れるのか。あ、いや、100歩譲って、配信でもいいや。その日が待ち遠しくてたまりません。

もう一点気になったのは、オケが舞台後方で演奏していた事。
「コンサート」だからなのだろうと思いますが、本来なら、指揮者が舞台の演者から見える方が、指揮者も演者もやりやすいはず。難曲ばかりの作品で、セリフもふつうにあるし、指揮者はさぞ振りにくかったのではと推察します。
ふつうに考えて、舞台も狭くなるし、場転のバリエーションも減るし、今風に言えば「密」にもなるし、オケがオンステージなのは、素人目にはデメリットの方が多過ぎる気がしましたが、なぜあの設えだったのかなぁ。フルバージョンの公演では、オケはピットでの演奏である事を祈りつつ。

アイゼンハイムと皇太子

まず、正直な感想をひとつだけ言っておこうと思います。アイゼンハイムは、間違いなく春馬君の当たり役になっていたと思います。春馬君が演じる事で魂が吹き込まれるのを待っていたかのような役でした。

と書くと、まるで海宝さんが役不足だったかのように思われるかもしれませんが、そうではありません。春馬君は、役によって如何様にも変身できてしまう「カメレオン俳優」と呼ばれていましたが、アイゼンハイムは、言ってみれば「カメレオン役」。演じる人によって、如何様にも色が変えられる役なのではないかな、と思いました。きっと、海宝さんのアイゼンハイムも、当たり役としてこの先も語り継がれていくのだろうという気がします。

海宝さんは、もともと真っ直ぐでわかりやすいお芝居をする俳優さん。人を騙すのが仕事のイリュージョニストであっても、演技がストレートでシンプルです。
それが、警察官役の目線を通して事件を見ている観客の目を欺くのに、むしろ効果的。
胡散臭さは全く感じられず、騙してる感が漂わないアイゼンハイムは、春馬君の想定でイメージしていたアイゼンハイムとは正反対で、いい意味で予想を裏切られました。海宝さんの演じるアイゼンハイムこそ、むしろ真の悪党なんじゃないかと思います。

海宝さんついでに、もうひとつ。アイゼンハイムが、胡散臭くなく極めてストレートに見えた理由のひとつは、誤魔化しのない圧倒的な歌唱力にあります。
「王子様キャラかよ!」というくらいスコーンと抜けた高音は、腹黒いアイゼンハイムにおいても健在で、下手に技巧に走らず丁寧に歌ったのが大成功していました。
というか、難曲が多くて、技巧を凝らして表現するところまで、歌いこんでいなかったのかもしれない。でも、それはそれで、キャラクターとして矛盾なく成立していたように感じたのは、海宝さん独特の世界観が成せる技だったのだろうと思います。

海宝さんのアイゼンハイムは、予想を超えた面白いケミカルによって、確かに、あらたな魂を吹き込まれていました。でも、その一方で、もう少し稽古期間があったら。。。と思わずにいられないポイントもいくつかあるにはありました。いつの日か、あの甘いマスクという仮面の下に隠された、真っ黒な腹黒アイゼンハイムを、ぜひとも諸々整った舞台で観てみたいなぁと思います。

と、ここまで大絶賛しておいてもやはり、私は、見るからに悪党風の皇太子役で海宝さんを観たかった。
観客に「クセの強い嫌なやつ」と思われる役を海宝さんがどんな風に演じたのか、胡散臭さを消したイリュージョニストを観て、ますます興味がわきました。
春馬君のアイゼンハイムが観られなかった事と同じくらい、海宝さんの皇太子が観られなかった事も残念でなりません。
再演があるなら、海宝さんはアイゼンハイムと皇太子、1人二役でお願いしたい(笑

Les Misérablesでは、バルジャンとジャベールを、同じ役者さんが日によって役を変えて登場する事もあります。
そんなふうにできないかなぁ。。。なんて。

とにもかくにも、短期間で、表現手法も限られる中、真摯に役を追及し続けた海宝さんに、心から賛辞を送りたいと思います。
ぜひ、夢の続きを見せてください。
あ、でもきっと、この夢の続きが1番見たいのは、海宝さんご自身なのかもしれませんね。

正義と真実

さて、『イリュージョニスト』の登場人物で、最もわかりにくい人物、アイゼンハイムの正義はどこにあったのか。

原作の映画版は、ソフィとの純愛もののようなのですが、今回のミュージカル版を観る限り、ソフィに対する愛情も、本当のところ単なる皇太子に対するジェラシーだけだったりしないのか?とか、色々妄想を掻き立てられました。

そのあたりを、もう少し時間をかけて演技なり脚本なりに落とし込んであれば、より凄みを増すんじゃないかと思います。

今回の舞台に限っては、アイゼンハイムのソフィに対する愛情は本物なのか?結末はアイゼンハイムの計画通りなの?と、沢山疑問が残りました。
この手の芝居は、疑問が沢山出てきて、悶々としたら、きっと成功。
もう一度観たい、違う役者でも観てみたい、原作も観てみたい、そんな心に引っかかる余韻があればあるほど、きっと大成功なんだと思います。

『イリュージョニスト』というタイトルの通り、劇中のイリュージョンが見どころの作品なのですが、今回のコンサート形式では、イリュージョンはほぼお預け。
おまけに、肝心のシーンあたりは、私もほぼ幽体離脱していて、記憶になく(泣
すべて事が終わったあたりから、復活して見始めたのですが、これって、料理番組で言ったら、「作ってるところを見逃して、料理を食べてるシーンから見始めた」ようなもの。それはきっと神様が、もう一度、フルバージョンをちゃんと見なさいよと言ってくれていると思う事にします。

で、つまり、私がしっかり見たシーンは、すべてフェイクだったという事になります。
舞台上で起こる事が真実だと思っていたら、最後のどんでん返し。
この作品は、目の前で起こってることが真実だという証拠なんてどこにもないんだよと、観客を嘲笑うお芝居なのです。

騙されないぞと思って観てても、あの脚本だと初見の時はまんまと騙されるでしょう。
でも、なかなか快感ではあります。

どんでん返しを見てしまうと、アイゼンハイムが大切にしたかったのは結局なんだったのか、ほんとにソフィに対する愛情だったのか。
そんな単純な純愛ものには思えなくなってきて。

皇太子に対しては嫉妬、警察官に対しては真実を暴いてみろよという挑戦であり、ジーガに対しては自分を蔑ろにした恨み。
とにかくアイゼンハイムの中身は、人間の持つ感情の中でも、最も醜い感情の塊みたいなものでいっぱいな気がします。

さらに言うと、本当にソフィを愛しているのかすら怪しい気がする。
ソフィの事も、自分の自己顕示欲を満たすための手段なんじゃないかとすら思えてくる。
でも、情熱的に愛を歌う。なんて悪いやつ。。のはずが、王子様に見えちゃうんですね。。。

これじゃ、海宝アイゼンハイム自体がまるで最大のイリュージョンじゃないか!

ちょっと変化球だけど、これも額縁構造の一種なのかな。
しかも、額縁の中身と外も、ちゃんとシンクロしている。何度も言いますが、ほんと、よくできたストーリーです。

結局、真実は詳らかになったような、ならないような、もやーっとしたまま終わります。
あれ?明らかになったでしょ?と思っても、それは自分の思い込みかもしれない。
警察官は自分の間違いに気づいたところで、ストーリーは終わりになりますが、その気づきすら、もう観てる方も猜疑心の塊になっちゃって、真実とは言えない気がしてくるのです。

結局、真実は闇の中なのか?自分が真実だと思ったものが、真実なのか?
正義と同様、真実もまた人によって異なるものなのかもしれない。

常々、ミュージカルが表現できるものは、受け手の引き出しの数だけ存在すると思っているのですが、とにかくモヤモヤ多すぎ。どうやら私の引き出しはまだまだ全然足りないようです。まだまだ精進しなくては!
いやその前に、体調管理だ!笑

と思いながら、帰路についたのでした。

『イリュージョニスト』に関わったすべての人々へ

とにもかくにも、幕は上がりました。
この先どう評価されようと、何があろうと、『イリュージョニスト』は、2021年1月に、日本で初めて上演されたという事実は変わりません。
初演に至るまでの諸々の事は、Wikipediaにでも書かれるか、再演時のプレイビルのちょっとしたネタになるくらいなものでしょう。

そう、今回の3日間、計5公演は、これから始まる『イリュージョニスト』という作品の長い道のりの中ではまだまだ最初の最初でしかありません。

帰り道、『イリュージョニスト』の余韻に浸りながら、私はこれまた久々に、ベートーヴェンの『交響曲第9番ニ短調作品125』を聴いていました。日本ではよく年末に演奏される事でも知られる、ベートーヴェン最後の交響曲、いわゆる『第九』です。

ベートーヴェンの『第九』については、いろんなエピソードが語られていますが、私の中では、今回の『イリュージョニスト』とリンクする部分が多く、無性に聴きたくなったのです。

この曲の初演時、ベートーヴェンはすでに聴力を失っており、曲は聴こえなかったと言われています。自分の書いた最高傑作の交響曲が実際に演奏されたのを、作曲家が聴くことが出来なかったなんて!
初演に出演したソリストは、直前まで変更やらなんやらのドタバタで、当初予定の歌手よりは力量不足の若手歌手になり、練習期間も3日とかで、直前まで開催が危ぶまれていたとか。
オケも合唱団も、当時は戦争中でプロのミュージシャンの確保が難しく、素人も入った混成部隊で、難曲を演奏するのは大変だったとも言われています。

そんな状況でも、予定通り演奏会で披露され、交響曲とソロとコーラスという組み合わせは、大きな話題となり、その後は世界中で愛される曲になりました。
ベートーヴェンの他の交響曲を知らなくても、第九は聞いたことある人は多いのではないかと思います。日本に限って言えば、演奏回数では5番の『運命』を抜いて、ダントツの一位ではないかと思います。

全ての条件が整ってお目見えする作品なんて、たぶん世の中にひとつもないんだろうと思います。

『イリュージョニスト』も第九のように大きく育つ作品になってくれと願ってやみません。まだまだ、セリフもブラッシュアップする余地がありそうだし、演出も美術も未知なる部分が大半なので、いつの日か完全フルバージョンで観たい。

素晴らしい作品が産まれるのには、様々な困難は付き物だと思います。
お披露目まで数年を要する作品なんて、ザラです。
作品が世に出るまでに、関係者に悲しい出来事や、不測の事態が起こる事だって、長い芸術の歴史には沢山ありました。
それでも、そこから立ち上がって成功するのが、エンタメのパワー。

今回、この作品作りに関わったすべての人々、関心を寄せた観客、劇場へ足を運んだ観客、このnoteを読んで下さったすべての「関係者のみなさん」へ。

『イリュージョニスト』の幕を開けてくれてありがとう!そして、この作品をミュージカルを代表する大作に育てて行こうではありませんか!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?