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個人にとって能力とは何か~門田充宏『ウィンズテイル・テイルズ』書評~

門田充宏の第2長編『ウィンズテイル・テイルズ』が2分冊で刊行された。

それぞれ『時不知の魔女と刻印の子』『封印の繭と運命の標』と副題が付されているが、実質的には上下2巻である。

いつとも知れない未来。人類の文明は、徘徊者によって崩壊していた。徘徊者は地上に生えた黒錐門から現れる真っ黒で巨大な怪物で、手に触れたものを生命といわず無機物といわず、石英と呼ばれる物質に変えてしまう。人々は相互に離れた都市で、徘徊者におびえつつ暮らしている。

舞台となるウィンズテイルは黒錐門のすぐ近くにある都市で、徘徊者から他の都市を防衛する任務を担っている。と言えば聞こえはいいが、いざとなったら捨て駒にされる存在である。

ウィンズテイルに住む少年・リンディは、15歳になったのを機に徘徊者を倒す町守の見習いとなる。リンディはどこから来たのかもわからない捨て子で、ニーモティカという女性にずっと育てられてきた。ニーモティカは見かけは12歳だが、実は120歳を超していて不老のため「時不知の魔女」と呼ばれている。

リンディとニーモティカの共通点は、異界紋と呼ばれる肌に刻印された不思議な紋様。異界紋の持ち主には特殊な能力があり、ニーモティカはこの異界紋があるため不老と言われているのだが、どうしたわけか同じ異界紋を持つリンディは成長を続けているのだった。

ある日、メイリーンという少女がウィンズテイルにやって来る。メイリーンにも異界紋があり、その能力は、徘徊者を倒した後に残る砕片から過去の文明の産物を復活させられるというものだった。

メイリーンの能力さえあれば文明の復興も夢じゃない! だが、メイリーンを連れてきた人間には邪悪な計画があったのだ。

本書は、いまどき珍しいド直球のジュブナイルSFである。リンディやメイリーンは迷ったり葛藤したりはするが、人としての根本的な「正しさ」――すなわち、他者を思いやること、勇気を持つこと、未来に希望をつなぐこと――についてはいささかもブレない。集英社は本書をフツーの文庫ではなく児童書のレーベルで出すべきであった(と思ったのだが、集英社にはつばさ文庫みたいなレーベルはないらしい)。

だから本書を読むのに難しい理屈はまったく不要である。読者は子供の頃に戻って物語に没入し、リンディたちの冒険にハラハラドキドキし、結末に爽快感を覚えて巻を閉じるのが正しい読み方だ。

というわけで、以下は蛇足である。

本書のテーマは、個人の能力とは誰のためにあるのか、というものだ。

私が本書を読みながら思い出したのは、高野雀の『しょうもないのうりょく』という脱力系コメディ漫画だった。「果物の旬がわかる異能」だの「書類を崩さず積める異能」だの、タイトル通りしょうもない異能の持ち主ばかりが勤める会社が舞台で、これまでノンビリやってきたのに、経営コンサルタントが乗り込んできて異能の適正配置とか言い出したとたん空気がおかしくなる(何しろ「リンゴの皮を途切れさせずにむける異能」が営業部なのは無駄だ、とか言うのだ)。

なるほど適材適所という言葉はあるし、自分の能力が世のため人のためになれば本人も嬉しかろう。しかしどんなつまらない能力でも世に役立てろと上から強制する社会ってどうなんだろう。それは伊藤計劃が『ハーモニー』で描いたような、顔のある個々人を資源としてしか見なさないディストピアではないのか。

門田の『記憶翻訳者』シリーズでは、過剰共感能力という社会から疎まれる能力の持ち主が、記憶翻訳という仕事に就くことで救われる過程が描かれる。そこでは、登場人物の能力と、本人の意志と、他者からの需要は一致している。

しかしそれはひょっとして、幸運で例外的な状況かもしれないのだ。『ウィンズテイル・テイルズ』でリンディは自分の異界紋が持つ能力さえ把握できていないし、仮に把握できたところで、それが幸福をもたらす保証はない。その意味で本書は、個人の能力というものについて『記憶翻訳者』からさらに一歩踏み込んだ作品と言える。

本書は2巻で一応完結する。しかし続編が書かれる余地は十分にある。ここはひとつ本書が売れて続編が刊行されることを望みたい。それこそが著者の能力と、読者の需要との幸福な一致というものではないか。


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