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熟成する空間

 30歳に近くなる頃から、帰省したときにする郷里での散歩が楽しくてたまらなくなった。18で上京するまでは自分が生まれ育った田舎町をわざわざ散歩することなどなかったし、20歳を過ぎてたまに実家に戻ることがあっても、別段外を出歩く気にはならなかった。それがなぜ、ある時から一転して散歩に惹きつけられるようになったのか。ひとことで言えば、おそらく記憶の空間が熟成されたということになる。

 それはたんなる懐かしさとも違う。20年近くも通ることがなかった友だちの家へと続く道を散歩するとき、そこで立ち現れてくる空間は、現在の現実の空間と熟成された記憶の空間とが二重になっている。記憶の空間とは、小学生だった当時の自分の背丈で体験した空間であり、背丈だけでなく、町や道や木々、同級生、よその家、自転車の速度、夕闇、あらゆるものごとに対して小学生だった自分の認識で体験した空間にほかならない。そうした記憶の空間が、大人になったいま体験する空間と重なって現れてくるとき、私はその二つの空間のあいだで揺さぶられ、ただ歩いているだけで酔っぱらってくるような、言い知れない高揚感に包まれるのだった。私はじっくりと時間をかけ、子どもの頃はもっと大きく感じられたはずの町のさまざまな場所を歩きまわった。

 しかし一方で、そうしたこの上ない快楽が長くは続かないことも、私は最初から気づいていた。なぜなら記憶と現実の二重の空間が現れるのはあくまで記憶が熟成した場所に限られるのであり、かつて同じように行き来した場所であっても、それ以来、たとえば帰省した際にいつも必然的に通るような場所では、その二重性は感じられない。つまり歩けば歩くほど記憶は上書きされるのである。散歩を続けることによって、やがて故郷の町がすべて現在に覆い尽くされてしまうという矛盾を抱えながら、私は数年のあいだ束の間の快楽を享受した。

 去年の正月休みは満を持して、おそらく卒業以来になる山の上の中学校へ足を運んでみた。しかしそれなりに懐かしさには浸ったものの、あの二重の空間の高揚感は得られなかった。それは中学を卒業する頃にもなれば、体格の面でも認識の面でも、より現在と連続的であるためではないかと思っている。

 こうして私の散歩の楽しみはひとまず終わりを迎えたが、考えてみると、たとえそれが人生のなかでの刹那的なことだったとしても、あの感覚を味わえたのは幸運だったように思う。そもそも私が故郷を離れなければそうした二重性は現れなかっただろうし、上京しても故郷に戻ることがなければ体験しようもない。記憶の澱みに沈んでしまうほど町が変貌することもなかった。ありえたかもしれない他の可能性は想像しがたいが、30歳前後というタイミングもちょうどよかったのではないだろうか。あるいはいま上書きされてしまった子どもの頃の記憶の空間も、また数十年寝かせておけば、再び熟成して現在に浮かび上がってくる時があるかもしれない。

初出:『東京人』2013年3月号
収録:『ベスト・エッセイ2014』日本文藝家協会編、光村図書出版、2014年
収録:『建築と日常の文章』(『建築と日常』号外)、2018年  

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