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建築を評価することの困難

SDレビュー2014展評

 依頼を受けてから気づいたが、SDレビューの展評を書くというのはたやすいことではない。そもそも個々の出展作についてはこの同じ冊子に審査評が載るし、応募作すべてを含めた総論も載る。それ以上になにを付け加えればよいのか。あるいは審査員によるそれらのテキストを一種の展覧会のキュレーションの意図として読み、そこまで含めたSDレビューの総体を批評するならば筋は通るが、あいにくこの原稿の執筆時(展覧会の会期中)には、それら審査員によるテキストはまだこの世に存在していない。

 どのような作品が応募され、どのような理由で入選作が決定したのか、そのことを無視して「今年の傾向」や「近年の傾向」を語るのは危ういように思う。少なくともそれはSDレビューの入選作の傾向であって建築界全般の傾向ではないし、こと建築というものにおいて、1年ないし数年ごとに変わるような傾向を指摘することにどれだけの意義があるのかは、次のような文章を読むと疑問に思わざるをえない。

「優れた建築家が、建築家というよりはむしろアーティストに変貌してしまったことは、20世紀特有の現象である。つまり、画家や彫刻家と同じように、一作ごとに構造や形態や仕上げを変え、類似の建築は二度とつくらないという態度が通例のものとなった。これは、前作の弱点を次作で修正し、次第に欠点のない成熟した工法やスタイルをめざした伝統的な建築家の態度とはまったく逆である。

 この現象には、建築ジャーナリズムの出現と隆盛が深く関係している。ジャーナリズムは、その性格上、新奇なもの珍奇なものにしか眼を向けない。品質や内容がいかに充実していても、外見が新奇でなければ取り上げてくれない。したがって、建築家は、自己の名を広め、仕事と地位を確保するために、建築ジャーナリズムが歓迎してくれるような作品を意識的に考案するようになる。こうしたプロセスや傾向は、完全に建築家と建築ジャーナリズム本位のものであり、建築本来の目的や社会的意義と大きく矛盾することは誰の目にも明らかである。」(桐敷真次郎『近代建築史』共立出版、2001年、p.262)

 ジャーナリズムのシステムによって、建築に目先の変化ばかりが求められるようになったこと。このことはSDレビューのような建築コンテストとも無縁ではないが、一方でSDレビューにはそれを回避する仕掛けも組み込まれている。つまり、現に進行中のプロジェクトのみが審査対象になる。現実的な条件から切り離された架空のプロジェクトや、すでに完成したがゆえにメディア上でいかようにでも演出可能な実作とは異なり、設計者自身さえ全貌が掴めない状態で動き続けているプロジェクトだからこそ、社会や日常のリアリティから大きく外れる確率は低い。ただし、そうして動き続けているからこそ、こちらもプロジェクトの全体像が掴めず、批評がしづらいとも言える。

 ところで一般に建築展の難しさとして、建築は絵画や彫刻と異なり会場で実物を見せられない、ということがしばしば言われる。その難問に立ち向かおうとして、最近の建築展では1/1スケールの体験型の模型が用意されたりするのだろうが、しかしおそらく建築展が難しい原因は、そうした物理的なモノのレベルでの再現ができないことよりも、その建築とそれが存在する環境との関係や、その建築をめぐる人々の行為といった、コトのレベルでの再現ができないことのほうが大きいのではないか。その難しさは展覧会に限らず書籍や雑誌でも同じだが、仮想的にであれ建築のコト性を追体験しようとするなら、それなりに慌ただしく、かつ情報量が限られた展覧会の会場に身を置くよりも、より落ち着いた状態で向き合える書籍や雑誌あるいはテレビなどのメディアのほうが適しているように思える。

 SDレビューの展評を書く難しさはここにも起因している。もちろん、建築を表現するのに展覧会は向いていないから展覧会は止めて冊子の出版だけにしたほうがよい、というわけではない。展覧会は展覧会で、各地から人や物が集まってひとつの現実の空間を形成し、そこにたまたま通りがかった人も含めて様々な人が訪れる、そのことの価値は疑いなくある。ここで言いたいのは、SDレビューに入選する建築に、モノ性よりもコト性のほうが強く感じられるものが多いということだ。

 たとえば今回の入選作で《公園墓地の管理棟》や《綾瀬の基板工場》は、独立した建築としてのモノ性が強く、批評と相性がよい。それに比べると住宅系の作品はクライアントの個性に依存している割合が高い、つまりコト性が強いように思えるが、たとえば郊外住宅や都市の集合住宅のタイポロジーを問題化した《柏の平屋》や《CONSTANT APARTMENT》では、個別の事例だけに閉じない抽象的な広がりが捉えられていて、肯定的に見るにせよ否定的に見るにせよ、外部からも問題にアプローチしやすい。しかし、たとえば海外の災害復興や貧困問題に関わる《村の賃貸住宅》や《HC3》は、プロジェクトの一回性やアクション性が強く、また日本からの地理的な遠さもあって、批評と相性が悪い。いま計画されている建物のかたちの良し悪しだけでプロジェクトを評価しても意味をなさないだろうし、少なくとも今回の展示物だけで客観的に批評をすることはきわめて難しい。ところが批評が困難だからといって、この類のプロジェクトは公的なコンテストに入選させる意義がないかというと、むしろこうしたものこそ設計者および関係者を顕彰し、展覧会を通して広く世に知らしめるべきかもしれない。また、もしこういったプロジェクトが、コンテストに入選するという目的のために無理矢理コト性を捨象して抽象的な全体像を与えられるとしたら、それこそ先の引用文で桐敷氏が指摘するように、現実の建築の目的を見失いかねない。とはいえやはり前掲のモノ性が強い作品群などとはあまりにも評価軸が異なるように思えるので、数多くの応募作のなかで、なぜそれぞれの作品が入選したのか、その評価の必然性がよくわからない。

 こうして考えてみると、SDレビューの入選作は、単にその個々が多様であるばかりでなく、それらの作品の評価に用いるべき評価軸までもが多様であると言える。展評を依頼され、いざ切れ味するどく2014年のSDレビューを一刀両断しようと思っても、まるで糠に釘、そもそもすべての入選作を同じ次元で捉えることなどできない。なんたる一貫性のなさ。その事実は評者を途方に暮れさせるが、ふと気がつくと、こうした評価軸の多様性はまさに建築の本性でもある。プロジェクトが途中段階であること、入選作数が15点程度と比較的多いこと(しかしその数はあらかじめ定められていないこと)、審査員長がいないこと(4名の審査員が1~2名ずつ短いスパンで入れ替わること)、こうした現行のSDレビューのシステムは、建築の多様性を持続的に許容していくように設計されている。そしてこの設計思想にこそSDレビューの建築に対する理念を見いだして、ひとまず本文は終えたい。紙幅が尽きたとはこのことだ。

初出:『SD2014』鹿島出版会、2014年
収録:『建築と日常の文章』(『建築と日常』号外)、2018年

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