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死者の仕事を思う──ある建築写真集への批判

 ある人物がその研究対象とする故人の建築写真集をつくるという名目で非営利のアーカイヴから大量の写真を無償で借り、写真集の出版後、それらの画像データを今度は事情を知らない海外の第三者に高額で貸し出して商売を始めようとしたという話を聞いた。ふっかけられた金額を不審に思った海外の第三者がアーカイヴに問い合わせたことで発覚したらしい。モラルもリスペクトもあったものではない。その写真は「ある撮影者の写真作品」としての意味だけでなく「ある建築家の建築作品の写真」としての意味も持っているので問題はより複雑だ。
 同じ人物はまた、写真集の出版目的で借りたその写真フィルムを用いて新たに無断でプリントを作成し、大胆にも写真集の刊行に合わせて「スペシャルエディション」と称して一般販売したという(35㎜フィルムのコンタクトプリント1シートで、売り値は税別88,000円だったようだ)。こちらのほうがより明白に計画性があり、未遂でもないため事件性が高い。アーティストを肩書きにしているその人物は、自身が制作した作品については人並みかそれ以上にきっちりとコピーライトを管理しているようだから、権利関係の知識がないわけではないのだと思う。
 これは単に詐欺的な手続きで盗品的なものが売られたというだけでなく、研究者然アーティスト然としたその人物(某大学の博士課程を修了しているという)が、故人である撮影者やその写真をいかにも尊重するかのように見せ、そのじつ自らの身勝手な利益のために故人の遺志を踏みにじっているという点で、より卑劣な行為に感じられる。日本の写真史でも重要な位置を占める故人はしかし、ある時期に自らの写真活動を全否定し、以降、それが自身の作品として扱われることを嫌ったのは周知のことだろう。件のアーカイヴもその故人の遺志を重んじ、公共的な利益との兼ね合いのなかでこれまで運営がされてきたのだし、写真集の制作者にもそのことは重ね重ね伝えられていたはずだ。にもかかわらず、それが作品どころか不正な手段で商品にまでされた。もし故人が生きて今回の件を知れば、激怒し深く傷ついたと思う。

 たとえば法律上この件がどう位置づけられるのか、僕には定かではない。少なくとも法的には当事者同士、つまりその人物と写真の所有者・著作権者の問題になるのだろうから(「スペシャルエディション」の販売業者と購入者も関わってくるかもしれない)、その意味では僕は部外者にほかならない。けれどもこれが出版(publication)に関係している以上、単なる当事者間の権利問題を超えて、より公共的な(public)問題でもあるのだと思う。
 僕がいま自分の立場で書きとどめておきたいのは、このモラルやリスペクトのなさは、出版された写真集自体にもすでに見受けられるということだ。僕が見るかぎり、上記の事件と写真集の内容とは決して別個のことではなく、表裏一体の関係にある。モラルやリスペクトがなくてもそれなりの価値が認められる本ができることはあるだろうが、本書の場合、この編者兼発行者の態度によって、写真やその撮影者がもつ意味は相当に歪められ、あるいは損なわれてしまっているように思われる。そしてこのことは上記のような法的な犯罪行為よりもむしろ影響は重大であると僕には感じられる(貸し出した写真を悪用されてしまったアーカイヴには気の毒だが、それ自体は世の中に無数にある犯罪のうち比較的ちんけな部類に入るだろうし、問題が発覚してしまえば解決はさほど困難ではないはずだ)。
 この写真集が抱える問題について細かいことを挙げていくと本当に切りがなく、またそれらの一部は書評として別のところで書いてもいるので、ここでは特に本質的と思われる点をいくつか記しておくことにする。
 モラルやリスペクトのなさはまず表紙のデザインに表れている。すなわち写真の撮影者である故人の名前と、編者である自らの名前を同じサイズの文字で等価に並べている点。これは出版物の内容やそこで編者が担っただろう仕事の程度からして明らかに妥当ではない(たとえば編者であるベレニス・アボットが決定的な役割を果たしたウジェーヌ・アジェの写真集でさえ両者の名前が等価に記されることなどないし、同様の形式の本と比べてもまったく例外的にちがいない。焼却を望んだカフカの遺志に背いてその遺稿を出版した友人マックス・ブロートは、その歴史的にも重要な仕事において自らの名前を大きく打ち出そうなどと考えただろうか)。また、有名な撮影者の名前と無名の編者の名前を並べて見せることは、販売促進、つまりより多くの人に手に取ってもらうための効果も期待できないどころか、極端に言って撮影者のクレジットが1/2に薄められて見えるわけだから、むしろせっかく出版する本の販売に悪い影響が予想される。にもかかわらずどうしてこうなっているのか。表紙は本の顔と言われるが、この写真集の表紙が語っているのは、何はともあれ自分をなるべく大きく見せたいという編者の欲望だと思う(もしもまともな出版社や編集者がついていたなら、おそらくこの表紙デザインは採用されなかっただろう。本書が抱える様々な問題は、編者が編集者や発行者も兼ねているという点に大きく依存していると思われる)。
 このような印象は、同じ編者による巻頭言を読むことでより明確になる。詳しくは書かないが(書評のほうで多少指摘している)、文章を立派に見せようとする意識ばかりが前面に出て、本来あるべき説明の抜けや論理のいびつさが散見される。こうした欠陥は、単に研究が未熟だったり作文の技術が足りなかったりすることだけが原因ではないと思う。もしそれらの力が十分ではなかったとしても、書き手の根本に対象への深い興味と実感があれば、当人の能力の範囲内で、ある種の秩序と必然性を感じさせる文章は書かれえただろう。しかしこの巻頭言はそうして内的に生成されたものではなく、自身の見え方を気にして外的に繕われたものに思われる。だからかえってボロが出る。そもそも本書には編者の研究にもとづくような知見はほとんど見られないが、こうしたハッタリ的な態度自体がおよそ健全な研究というものからかけ離れている。
 ひとつ重要と思える例を挙げれば、この写真集では、撮影者が建築写真を撮るとともにそれぞれの建築について書いた建築批評の存在がなぜか無視されている。たとえ本書が写真を扱う本だったとしても、同じ人物が同じ時期に同じ建築に対してなした(時に同じ媒体で同時に発表された)写真と批評の行為が無縁であるはずはない(特にこの撮影者/批評者の場合、極度に専門分化された現代社会において、一見ジャンルもテーマもばらばらに思える様々な活動や研究が、一個人によってなされたこと、そしてそれらがその底で繋がっているだろうことに、本質的な意味があると思う)。また、撮影者自身は写真よりも批評のほうこそ自分の仕事だと考えていたことは疑いえないのだから、一方の写真だけを持ち上げ、批評の存在に触れもしないというのは、作者にとってとりわけ侮辱的なことに思われる。写真集のタイトルを思い起こしても、そこで「建築のことば」であるはずの批評がなかったことにされているのは極めて不自然であり、不十分かつ不可解と言うほかない。面倒だったのか興味がなかったのか、それとも対象にとって重要であっても自分が苦手な領域は除外したかったのか、理由は分からない。
 そして本書の作業の中心とも言うべき写真の編集の仕方にも疑問は感じられる。本書の写真の並びからは、いったい編者はこれらの写真のどこに魅せられ自ら出版企画を起ち上げるまでになったのか、その関心の有り様をうかがうことができない。撮影者による建築批評のテキストを無視していることからも察せられるように、おそらく編者は写真の被写体である個々の建築には記号として以上の興味を抱いていない。とするとそれぞれの建築の作品性を外したところで写真そのものを直観的に観ることになるのだろうが、それはそれでひとつの態度だとしても、そこに一貫した固有のまなざしが感じられない。もとより撮影者が個々の建築作品に向き合うことで生まれている写真なのだから、そこを抜きにしてなんらかの有用な価値基準で位置づけようとすることには無理があるのだろう。結果、点数を絞って厳密に写真を組むことができず、それなりに多くの視点をそれなりに多くのカットで示すという消極的な編集方法になったということではないか(それにより不出来なカットや内容が類似するようなカットも拾われることになる)。写真集を商品として考えた場合、たしかにそうして多くの写真を載せることはひとつの売りになる。
 しかし一方で、そのように写真を定量的に扱い、足し算的に編集をすることは、ある種の建物を情報として伝える場合には有効だとしても、一般的な建築写真における情報性や記録性への過信・盲信を批判した撮影者の建築写真にはそぐわない。1点の写真は必ずしも自律的な存在ではなく、隣接する別の写真や言葉によって様々に意味を変えるものだ。実際本書ではその弛緩した編集により、撮影者が対峙した作品としての建築の存在はぼやかされ、内容の重複する写真同士が互いの作品性を相殺するようなことが起きている、と僕には思われる(10点の写真が1点の写真の10倍の体験をもたらすとは限らない。むしろ然るべき体験を10倍に希釈するかもしれない)。
 以上のようなことが編集の基本的性質として考えられるなかで、この写真集ではいくつかの部分でいかにも意味ありげな写真の構成がなされている(たとえば同じ建物で、工事中の写真と竣工後の写真を見開きごとに反復して掲載するなど)。しかし、そのアピールを真に受ける必要はないだろう。読者が向き合うべき内実はそこにはないと思う。全体の核心を欠いたまま部分的・表面的な装飾で虚勢を張るさまは巻頭言の文章と共通し、たしかにどちらも同じ人物の手によるものだと納得させられる。
 編者の認識は、たとえば本の宣伝文句にある「収録写真の半数以上が、本書において初めて発表されます」という言葉によく表れていると思う。「住宅作品をうつした写真の大半が、撮影後50年ものあいだ未発表であった」と言うけれど、多少でも写真というメディアに馴染みのある人なら誰でも常識的に分かるとおり、どんな写真家であれ、特に大判・中判ではなく35㎜のフィルムを用いている場合、撮られた写真の大半が発表されないのはごく当たり前のことだ(とはいえ厳密に調べたわけではない僕が知るかぎり、この写真集に掲載されている建築17作のうち少なくとも12作の写真は過去になんらかのかたちで発表されているし、発表されなかったものも、撮影者の自宅である1作を除いては、ただ単に発表されるには至らなかったというだけで、そこにことさら特別な理由があったとは思えない。この撮影者には、撮った写真はすべて作品化して自身の業績としなければならないという職業的な写真家の強迫観念はなかった)。
 そもそもある人がシャッターを切った写真、プリントした写真をすべてその人の作品と認めることには困難を感じさせる。それらの写真はあくまで作品未満の「素材」、あるいは使われない可能性も含んだ「素材候補」のようなものではないか。だとするなら、それら未発表写真を撮影者の作品として他者が発表することには、どれだけあっても十分とは思えない作品への深い理解と大きな責任を必要とする。未発表写真の数を得意気に売りにするような物言いには、そのことに対する恐れが感じられない。しかも本書ではそれらの未発表写真をかつて作品化された写真と区別せず一緒くたにしているのだから、やはり写真の創作に対するモラルやリスペクトは欠落している(まず実際にどの写真がすでに発表されているのか、研究の初歩的な作業であり地道に調べれば分かることを、この編者がきちんと把握しているかどうか定かではない。本書にはそれらの写真が生きた存在証明とも言うべき過去の掲載媒体の記載がない。初出情報を示さないということは、当時においてそれらの写真がどのような媒体でどのように発表されたかという(領域越境的な故人の建築写真においては特に)重要な事実から読者を断絶させるというだけでなく、それらの写真が世に出ることに関わった存在、つまりその仕事がなければ今の自分の仕事もないかもしれない過去のメディアや編集者などを尊重する意志も持ち合わせていないということだ。
 いったいこの編者は自らの仕事をことさら自分の手柄として見せるために、先達の営みを切り捨てるきらいがある。たとえば写真集の宣伝文などにおいて、今回の編集対象の写真を自分が「みつけた」と表現している点。コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したとき、たしかにそれまで西洋世界でその大陸は「見つかっていなかった」だろう。けれども故人の建築写真はこの世界で「見つかっていなかった」のか? まさかそんなことはない。数十年ものあいだそれぞれの所有者によって適切に管理されてきたはずだし、そのことは建築その他の出版メディアや美術館などにも当たり前に知られており、機会があるごとに貸し出されては、この編者を含む一般の目にも触れていたのである)。

 以上、写真集について長々と書いたことは冒頭の事件の印象を弱める盛大な蛇足に思われるかもしれない。僕自身の主観的な考えをさらしてしまってもいるだろう。しかしそれでも書かずにはいられないことだった。
 この写真集には撮影者の仕事の側面と編者の仕事の側面の両方がある。ふつう一冊の本はその統合をめざすものだが、ここでは両者が明確に分かれている。撮影者の仕事の側面を考えたとき、かつての写真がいまあらためて出版されたことの意義は(故人が望まないことだったにせよ)否定できない。この写真集によって、収録された写真や建築に新たに興味を惹かれる人もいるだろうし、なんらかの思考や行動が触発されることもあるかもしれない。しかしその出版の意義を認めようとすればするほど、それを実現させたはずの編者の仕事が同時に、その意義に反するもの、それらの写真や故人の活動を貶めるものに思えてしまう。

初出:『建築と日常』編集者日記 − 2021-04-06

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