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若気のいたりで撮られた写真

書評:『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』写真=多木浩二、文章=多木浩二・今福龍太、編=飯沼珠実、建築の建築、2020年

 哲学者で広く文化の研究者だった多木浩二(1928-2011)は、1960年代から70年代後半、自らの批評対象であるような建築の写真を少なからず撮影している[*1]。途中、写真家の中平卓馬や森山大道らとの同人誌『プロヴォーク』(1968-69)で前衛的な写真表現も押し進めたが、いずれの写真もある時期までに処分され、今は数名の身近な建築家に預けていたそれぞれの建築の写真が残るばかりだという。先頃、アーティストの飯沼珠実がそれらの写真を集めて回り、多木の建築写真集を出版した。掲載は篠原一男の住宅14軒に加え、坂本一成の《代田の町家》と伊東豊雄の《中野本町の家》、多木邸である《銀舎》(設計=白澤宏規)の計17軒、写真119点である(他にコンタクトシートが6枚)。

 本書の書評はぜひ自分がしておかなければと思う反面、執筆のスタンスが難しい。評者たる私は生前の多木に何度か写真の掲載許可を頼んだことがあるが、そのたびに電話口の多木はなかば諦めたように、しかし言わずにはいられないという様子で、「建築の説明として写真が使われるのは仕方ないが、可能なら撮影者名は外してほしい」と言うのだった。多木が生きていたら今回の出版企画は断固拒否したに違いない。多木の自伝的な著書にはこう書かれている。「六〇年代からこのころまで、自分でも写真を撮っていたのは、若気のいたりとしか言いようがない。私は写真家に必要な性格、機敏さも大胆さも、繊細な瞬間的感受性も持ち合わせていなかった」[*2]。

 一般に作者自身が否定する作品に高い価値が認められることは珍しくないし、多木が自らの仕事に極めて厳しかったのは事実だとしても、数多くの写真論をものし、写真に対して卓越した目をもっていた多木がこう断言することを軽くは扱えない[*3]。本書の書評ではこうした多木の言葉を無視してその写真をもっともらしく権威づけるのは慎むべきであり、その言葉の意味を認めた上でなお多木の写真に価値を見出せるかどうかが問題になる。後年の多木と親交があった今福龍太が巻末に寄せた文章で指摘するように、多木のまなざしを示すこれらの建築写真が「多木の哲学の内実を探るためのきわめて貴重な手がかりとなる」のは間違いないとしても、評者にとってまず問題なのは目の前の写真そのものであり、仮にそこに多木浩二のクレジットがなく撮影者不明の状態だったとしても、それらの質を見極められなければならない。おそらく多木がさまざまな作品や事物を見るまなざしも、そのような孤独な直観に支えられていたはずなのだ。

 この書評がもう一つ難しいのは、写真に写る建築の多くを評者が訪れていないことにある。本書の写真の多くは、客観的な記録性を旨とする建築写真の枠組みを大きく外れ、非現実的な様相さえ漂わせているが、それは多木が現実の建築から目を逸らして写真の画面上で美術的な実験や遊戯に耽っていたことを意味しない。1970年当時、多木はこう書いている。「「言語」であろうと「写真」であろうと、すべての表現活動は、結局、ふたしかな現象の膜を自らの肉体でとおりぬけながら、真の実在とはなにかを見出そうと努力することであり、さらに煎じつめていえば、いまわれわれが日常的にふれている構造をこえてあらたな構造を見出そうとすることにつながっている」[*4]。プロヴォーク上がりの多木の写真は、当時の建築界でことさら反−建築写真として否定の身ぶりが目立ったはずだ。けれども当の多木は、ただ自分の手の内にある写真技術によって各建築の実在に迫ろうとしていたのではないか。だとするとその写真を深く読むには、そこで多木が向き合った建築各々を知る必要がどうしても出てくる[*5]。

 多木の建築写真を読むための手がかりが、晩年の著書『建築家・篠原一男──幾何学的想像力』(青土社、2007年)にある。その本では多木による主要な篠原論に加え、多木が自選した篠原建築の写真が成功例として7点、成功しなかった例として7点掲載されている。どの建築も「いくら撮っても一枚くらいしかまあまあというものしかなかった」(32頁)と多木は記すが、その言葉とそれらの写真からは、多木が組写真として建築を撮ろうとしていなかったことがとりあえず分かる。通常の建築写真は基本的に複数の写真を組み合わせて建築の全体像を示そうとするが、多木にはその意識は希薄であり、あくまで写真1点1点で建築の存在を捉えようとした[*6]。

 これを踏まえると、伊東豊雄の《中野本町の家》の写真を「建築について撮った写真のなかで自分の気に入っているほとんど唯一のもの」[*7]と多木が述べているのは論理的にも納得がいく。《中野本町の家》は作品論的には外観はほぼないも同然であり、内部のチューブ状の空間は金太郎飴のごとくどこを撮ってもその建築を全一的に示しうるからだ。また伊東が「光の分布や空気の流れ具合、あるいはそこにいる人びとの状態までも含めて、時間とともに表情が変化し、その変化の様相がひとつの流れと渦のように感じられる領域」[*8]と説明するその空間は、三脚を用いず手持ちの一眼レフで「自らの肉体でとおりぬけながら」撮る多木の撮影手法とも相性がよい。一方、伊東が「ヴィジブルな世界に意味の発生域を見定めている」のと対照的に、「ヴィジブルな経験にあらわれるものより、より客観的なものを求めている」[*9]坂本一成の《代田の町家》の写真は、その建築性を撮り損ねている。室同士の構成や建築の部分と全体との関係が本質的な意味をもつ《代田の町家》は、単体の写真では捉えにくいのだと思われる[*10]。

 それでは多木が最も多く撮影し、本書の大部分もなしている篠原一男の建築はどうか。あらためて多木の篠原論と撮影写真を照らし合わせてみると、例えば以下の言葉など批評の節々に、いくつかの写真との共振が感じられた。「不思議なことであるが、ここでは広さがつかめない」(鈴庄さんの家)、「黒々とする斜面のひろがりは、これから意味がつくり出されようとする途上を思わせる非現実的な空間であった」(谷川さんの住宅)、「異質な要素が集合し、要素が一つ付け加わるたびに新たな状態が発生していく過程としての建築」(上原通りの住宅)[*11]。

 はたして写真と言葉はどのような関係にあったのか。《未完の家》と《篠さんの家》が多木による写真で衝撃的に発表された『新建築』1971年1月号では、多木がそれらの写真の「とりにくさ」を起点に建築を論じていて興味ぶかい(「続・篠原一男論──〈意味〉の空間」)。二つの住宅は二層吹き抜けの谷のような広間(亀裂の空間)を中心部にもつことを特徴とする。多木によれば、その空間の撮りにくさは特異なプロポーションだけによるのではない。それまでの篠原建築が視覚的な正面性をもった「まなざしの空間」だとすれば、「亀裂の空間」がもたらすのは複数の身体を前提とした「声の空間」であり、カメラによる視覚が体験的な空間の知覚とずれを起こすのだ。ここにおいて写真の撮影行為は多木の批評的知性を触発し、言葉と動的な関係で結ばれている[*12]。

 以降、こうした単純な視覚のみでは捉えがたい空間を展開させていく篠原を追走するように、多木は篠原の建築を撮り続けるが、その関係も70年代末には自身で終了させる。それは多木にとって挫折だったかもしれない。しかしこうして多木の建築写真のあり方を知れば、もはや多木に写真の才能があったかどうかは問題ではなくなる。多木以外のいったい誰が一人の建築家の作品をここまで深く読み込み、その「とりにくさ」と格闘しながら建築の実在を捉えようとしたか[*13]。多木にしか見えていない世界はやはり多木にしか撮れないのであり、写真のそうした不思議こそ、多木が生涯写真に興味をひかれ続けた要因でもあっただろう。若気のいたりで撮られた写真は今も若々しく多木の息づかいを伝える。

[*1]『多木浩二と建築』(長島明夫、2013年)の著作目録を参照。篠原一男や磯崎新や倉俣史朗、ル・コルビュジエ、マンジャロッティらによる国内外の現代作品から、ゴシックの大聖堂やライトの帝国ホテルなどまで、モノクロの小型カメラに限らず幅広く撮影した。

[*2]多木浩二『雑学者の夢』岩波書店、2004年、9-10頁

[*3]多木の自己評価を裏付ける言葉は写真界にも見られる。『プロヴォーク』の同人だった写真家の高梨豊は「正直言って、多木さんを写真家だとは思っていませんでしたね」と述べ、その写真は時に「森山さんのエピゴーネンだったりする」と指摘する(高梨豊「「写真=同語反復」への苛立ち」『デジャ=ヴュ』14号、1993年)。また同じ頃多木の近くにいた学生は、「私が「多木さんは写真が下手だからなー」と言うと苦笑いしていた」と後に記している(川俣修壽「私的回顧・多木さんの事」。2011年に著者の個人紙で発表後、『建築と日常』ホームページに転載)。

[*4]多木浩二「写真になにが可能か」『まずたしからしさの世界をすてろ──写真と言語の思想』田畑書店、1970年

[*5]多木には『生きられた家』(初版:田畑書店、1976年)という有名な著書があるが、人々に長く住まれた無名の「生きられた家」への関心と、本書に収録されたような建築家の創造による建築作品への関心は、「最初から二つに分かれていた」。「歴史社会学者のノルベルト・エリアスが文化には知的創造と普通の人間の生活という二面があるとしたのと同様に、建築という概念にも相互に無関係ではないが異なる審級で考えられるべき二つの空間が含まれている、と考えていた」(多木浩二「建築の思考」『建築・夢の軌跡』青土社、1998年)。したがって『生きられた家』の系統に属する「家のことば」(『家 meaning of the house』写真=篠山紀信、潮出版社、1975年)という文章をなんの説明もなくこの建築写真集の巻頭に掲げることは、多木がしてきた仕事への思慮を欠き、読者に戸惑いや誤解を生む恐れがある。

[*6]本書の編集作業で確認された写真は12,000カット以上というが、この20軒足らずの住宅としては異例の撮影点数の多さにも、多木が計算された組写真ではなく決定的な1点を求めていたことが窺える。自ずと撮影後に写真を選び抜く作業も創作の重要な一過程になるが、どういうわけか本書では同一の建築で内容が重なる(あるいは印象を相殺する)写真が載せられ、個々の写真の作品性を弱めているきらいがある。私見では本書は半分程度のページ数に抑えたほうが写真は生きたのではないかと思う。

[*7]多木浩二「ひとつの建築が消えた日──Houses rise and fall...」、前掲『建築・夢の軌跡』

[*8]伊東豊雄「白い環」『新建築』1976年11月号

[*9]いずれも多木浩二「建築のレトリック1 「形式」の概念──建築と意味の問題」『新建築』1976年11月号

[*10]本書の写真はすべてモノクロ(ダブルトーン印刷)だが、《代田の町家》の写真は実際にはカラーフィルムで撮られているはずだ。他に《花山南の家》《未完の家》《篠さんの家》なども発表時の『新建築』誌などでは一部がカラーで掲載されている。いずれの建築も多木自身が色について論じており、また当時の建築雑誌の大半がモノクロだったことも考慮すると、各建築がカラーで撮られたことには一定の意味が見出せる。モノクロでの統一は多木の建築写真に対するステレオタイプを強化することにもなるため、撮影者の作家性を尊重するなら、このあたりの事実関係は明記すべきだっただろう。

[*11]それぞれ多木浩二「異端の空間──篠原一男論」『新建築』1968年7月号、「建築のレトリック2 意味の力学としての建築」『新建築』1977年1月号、「主題の変遷と基本的構造──篠原一男論・序説」『建築文化』1988年10月号

[*12]本書「はじめに」では多木が建築写真を撮影した根拠として「建築を都市の問題との関係の中で考えるよりも、写真で考える方がずっと考えやすい」という多木の発言(大島洋・飯沢耕太郎・八角聡仁とのシンポジウム「現代写真の位相──『プロヴォーク』以降」、前掲『デジャ=ヴュ』14号)を引き、そうして撮られた写真は「執筆のためのメモ」だったと示唆している。しかし引用文の原典を当たると、多木の言葉は自らによる写真の撮影ではなく既存の写真の「分析」の文脈で語られており、引用は不適切と言える。多木が建築写真を撮った目的は確かに不明瞭だが、人の創作行為の動機をないがしろにはできない。

[*13]裏を返せば、建築を建築的に撮ろうとせず、一部分を切り取ってグラフィック的・彫刻的に見せているような写真はあまりうまくいっていないのだと思う。それらは例えば都市をグラフィカルに捉えた森山大道の写真や、《上原通りの住宅》を彫刻的に捉えた大辻清司の写真(『アサヒカメラ』1976年10月号)と比べて確かに見劣りがする。

初出:『住宅建築』2020年12月号
noteでの公開に際してのメモ

【追記】
上記の書評の執筆後、多木浩二の建築写真についてより深く考えるため、大村高広・塩崎太伸の両氏とともに、トークライブ「多木浩二と建築写真──三人寄れば文殊の知恵」を行いました(2020年11月15日)。以下、その配信動画です。こちらでは実際の建築写真を題材に、その具体的な見方を議論しています。

前編(2時間43分)
00:00 趣旨説明・話者紹介
18:50 多木浩二プロフィール
34:25 多木浩二の建築写真集を読むに際しての問題
54:48 篠原一男の建築に対する批評と写真
1:17:08 篠原建築の写真の分析 1

後編(2時間21分)
00:00 篠原建築の写真の分析 2
1:09:46 建築写真の主体性
1:37:20 伊東豊雄《中野本町の家》と坂本一成《代田の町家》の写真の分析
2:02:52 結び

※トーク後記
塩崎太伸|研究ノート − ひとりの哲学者が撮った建築写真を5時間ながめてみて
大村高広|声にだして読みたくなるブログ − NOV.23,2020_アフタートーク
長島明夫|『建築と日常』編集者日記 − 2020-11-24

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