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プロとアマの間

赤瀬川原平さんが『目利きのヒミツ』(知恵の森文庫、2002年)という本で、現代では「目が利く」ことよりも「鼻が利く」ことのほうが優先されるようになったと書いている。「しかし印象として、鼻が利くというと何となく小狡い感じがするのは何故だろうか。目利きというと一対一の勝負、日本刀の試合のようなズバリ感覚があるのだけど、鼻が利くというと、何となく周囲のことばかり気にして、横目を使ったり、そわそわして落着かない人物像が浮かぶのである」(pp.91-92)。自分の信念に根づいた主体的な判断ではなく、外部のもっともらしい評価軸や世俗的な関係に従うこと。赤瀬川さんの文章の初出は95年だが、こうした傾向は、その後のインターネットの浸透などによって、今ではより顕著になっていると思う。ただ単に「っぽい」というだけで人生の実感がない言葉や物が大手を振る。僕が個人で発行する雑誌『建築と日常』は、少なくともこうした現代の状況と一線を画すものでありたい。日常という言葉は誤解されやすいのだが、それは非日常に対する平凡な日常という意味では必ずしもなく、どちらかと言うと、ある種の専門性に対するアマチュアリズムを成立させる地平である。エドワード・サイードはこう言う。「アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう」(エドワード・W・サイード『知識人とは何か』大橋洋一訳、平凡社ライブラリー、1998年〔原著1994年〕、p.127)。

『建築と日常』は2009年創刊、これまでに0号「建築にしかできないこと」、1号「物語の建築」、2号「建築の持ち主」、別冊『窓の観察』を刊行している。雑誌のロゴと表紙のデザインを知り合いのデザイナーに頼んでいるほかは、誌面のレイアウトまで一人で作業している。レイアウトにはInDesignという一般的なDTPソフトを用いているのだが、自分で雑誌を作るまではほとんど触ったこともなく、0号のときは30日間の無料お試し版で乗り切った。ただ、印刷は、ネットからPDFのデータを送ると数日後に段ボール箱に詰められた雑誌が届くという簡素なシステムなので、やろうと思えばワープロソフトだけでもできなくはない。その印刷会社はざっと検索したかぎり最も料金が安かったところで、例えば2号はA5判モノクロ112ページを2000部刷って、税込242,200円だった。販売は、なにかの機会に自分で手売りすることもあるけれど、基本的には書店と直接取引をする。こちらから打診したところもあれば、向こうから声をかけてきてくれたところもある。おそらく日本の出版流通システムの行き詰まりや、ネット書店に対抗するリアル書店の個性化という流れもあって、こうしたインディペンデントな出版物が以前より扱われやすい状況になっているのだろう。今のところ全国40店舗ほどで販売されている。取引は買取よりも委託が多く、掛け率は70%か75%程度。

 こう書いてくると、今や雑誌を作ることなど誰にでもできるように思えるかもしれない。事実、誰にでも絵が描けるように、誰にでも歌が歌えるように、雑誌など誰にでも作れるだろう。しかし僕は決して誰しもにそれを推奨しない。一つには、やはり出版(publish)とは公共的な行為なのである。アマチュアリズムの根を持つことは今の世の中で決定的に重要だが、完全なるアマチュアであっていいわけではもちろんない。そこでは自分の活動を批判的に見るプロのまなざしが求められる。もう一つには、同業者を増やしたくない。ライバル誌と呼べるような存在があればお互い切磋琢磨できるのかもしれないが、市場の有象無象のなかで、それでも価値があるものは残るのだという楽観的な認識は、斯界の現状を見るかぎり持てずにいる。

 個人出版はあくまで一つの形式でしかない。そもそも建築の領域の裾野は極めて広い。それは個人の実感で捉えきれるものではなく、時にはより遠くまで効率よく鼻を利かせることも必要になるだろう。また普通に考えれば、個人でできることよりも大きな組織でできることのほうが大きいに決まっている。肝心なのは、その時々において、それに関わる個人が自由で主体的かつ自省的な判断をするように心掛けることであり、その能力を持つことである。

初出:『建築雑誌』2013年5月号
収録:『建築と日常の文章』(『建築と日常』号外)、2018年

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