第20話 Reminiscence in Hong Kong – 九龙寨城里体验之记录

少し前のことだが、李さんの親戚が経営する会社で、ある女性の方が退職した。彼女は長年その会社に勤めており、経営者一家はもちろん、一家以外の李さんの親戚の一部も彼女のことはよく知っていた。これは、李さんの親戚のその経営者がまだ若いとき、彼女と出会った頃の話。

出会ったとは言っても、別に恋愛関係になったというわけではない。単に縁があって、彼女はその会社で働き出したというだけだ。ここで紹介しているのは、彼女の働きに関する、幾分か謎の多い話。

その経営者の彼がまだ本部の経営者ではなかった頃、彼は一時期香港に滞在していたことがある。20世紀の終わり頃、当時香港には九龍城塞という一大スラム街が存在した。そこは家賃が安いため、貧困層が身を寄せ合って生活していた。

彼自身は実家がお金持ちであり、また経営者一家であることもあり、比較的治安のよい地域のアパートで生活していた。当時彼の実家が経営していた会社は香港支社を開設したばかりであり、教育も兼ねて彼はその支店の運営を任されていた。

彼女が入社したのは、開設してから日が浅いときのこと。従業員の募集を始めてから数日しか経っていなかった。彼女が入社した当時、香港支社は香港に加え、中国大陸、マカオ、台湾、そしてシンガポールとの貿易事業と不動産事業を行っていた。香港支社は、日本と中華圏をつなぐパイプ役であり、仕事の覚えが早かった彼女は、その頭角を徐々に現していった。

香港支社が設立されて、一年ほどが経った頃、危機が訪れた。取引先から注文された、ある試作部品が支社に到着しなかったのだ。期限が迫る中、彼は有効な打開策を探していた。しかし彼の思考は暗闇を彷徨い、打開策も、その策まで彼を導く希望の光も見えない有様だった。支店長である彼のそんな窮状を目の当たりにした彼女は、救いの手を差し伸べた。
「私に、心当たりがあります」
意外な一言に、心を揺さぶられる彼。信じていいのか、その一言を? 彼女は続けた。
「A社(彼の香港支社に部品を納入するはずだった会社)の品質には及ばないかもしれません。ですが、要求事項は果たせると思います」
彼女はその日、彼を九龍城塞へと招いた。貧者と犯罪者の巣窟、当時の彼が九龍城塞に対して抱いていたのは、そんなイメージだった。躊躇していた彼も、支店を任されていた立場上、彼女を頼らざるを得なかった。

2人は、九龍城塞へと向かった。

内部の案内は、彼女に一任した。彼が歩んだ思考の暗闇に負けず劣らず暗い場所だった城塞。入り組んだ隘路に、不衛生な住居。頭の回転が速く、勤務態度にも遜色のない彼女自身と彼女がこのようなところに住んでいるという事実が、彼の中で符合しなかった。そんな違和感も、城塞の深くへと入り込むにつれて薄まっていった。顔見知りと気兼ねなく挨拶を交わす彼女。彼女はまさに、この九龍城塞の住人だった。
「着きました」
そこは、ただの部屋。城塞内を歩いている途中でちらほら見えた、人が住んでいる部屋と何ら変わりのない一室。彼女は部屋の奥に向かって声をかけた。中から出てきたのは、何の変哲もないおじさん。灰色のYシャツに黒色の中華風長ズボンという出で立ち。城塞の外を歩いている中年男性の典型的な姿だった。
「それでは、早速会議を始めましょう。Bさん(李さんのその親戚の経営者(当時は支店長)の名前)、図面をお願いします」
本来は機密情報であった図面だが、納入期限が迫る中、躊躇している暇はなかった。彼は図面を取り出し、そのおじさんに見せた。おじさんは顔をしかめつつ、広東語で彼女に何かを喋った。
「『納期は厳しい。でも、何とか間に合わせられるかもしれない』と言っています」
彼は藁にも縋る思いで、そのおじさんに部品を注文した。試作部品とは言いつつ、構造は複雑だった。普通に考えて、城塞でそのような部品を製作するのは不可能だ。調達するのも、非常に困難なはず。
「本当にあの部品を入手できるのだろうか?」
そんな疑念が彼の心の中で寄せては引いていた。

疑念が払しょくされ、彼の心に晴天が訪れたのは、数日後。彼女は再び彼を城塞へと連れて行き、城塞に入ってきた試作部品を一緒に確認した。
「要求事項は満たされている。これなら、納入しても大丈夫だ」
A社が普段納入する製品の品質には及ばなかったものの、城塞で入手したその部品に問題はなかった。取引先には、A社が間に合わなかったため、急遽別の会社に依頼した旨を報告すれば、話はスムーズに運ぶ。香港支社は、城塞に救われた。

それ以来、香港支社は窮地に陥るたびに彼女が城塞とのパイプ役となり、辛くも難を逃れてきた。先ほどの部品のときもそうだが、城塞に依頼をすれば、必要なものが確実に手に入った。稀にではあったが、香港支社がいつも取引している会社のサービスよりもはるかに高品質なものを城塞で手に入れることがあった。
最大の謎、それは、城塞がそのようなモノやサービスを入手している方法だった。
どこで、どんな方法で、誰から誰へ…
今は亡きその城塞、彼女自身もどこまで城塞のことを把握していたかは、未だにわからないまま。

彼女のおかげで香港支社が発展したのは事実。その功績もあって彼女は日本の本社へと招かれ、長年にわたり彼の会社に貢献してきた。

「昔の友人に誘われたので…」
彼女はそう言って、退職した。彼女の新しい仕事は、いったいどんな仕事なのだろうか。「昔の友人」とは、城塞にいた頃の知人のことだろうか。

城塞の内部は、今なお深い闇に閉ざされている。


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