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陰陽師に憧れて京都旅(その7)京都を築き、ゴジラとも戦う和気清麻呂公



出張中の京都駅でアポのドタキャンを知って怒り狂った男二人。その勢いのままに「丑の刻参り」の聖地・貴船神社へ向かう。
しかし、そこには怒りや呪いすら清める清浄な空間があった。賢者のような気持ちになって下山し、下鴨神社と糺の森でまた心が清められる二人なのだった。

【京都御苑を通って護王神社へ】

平安京を作ったのは和気清麻呂わけのきよまろ公である。
宇佐八幡宮うさはちまんぐう神託事件の際に、「わが国は開闢かいびゃくこのかた、君臣くんしんのこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。あま日嗣ひつぎは、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」との八幡神の神託を告げ、皇位を狙う僧・道鏡を排除することができた。
皇室でも無い人が天皇になろうとしたのだから、今思うととんでもない話だ。そして、権勢のある人間を身の危険を顧みずに批判するというのは今以上に勇気のいることだった。
この捨て身の勇気で皇室は護られたのだった。

さて、その和気清麻呂公が祀られる護王神社へは下鴨神社から歩くと結構ある。

30分、京都の町並みを楽しみながら歩くのも、また乙なもの。

京都御苑

色づく京都御苑を拝しつつ、蛤御門から出る。するともう目の前だ。
和気清麻呂公は今でも京都御苑の隣に位置して、皇室を守護している。

【イノシシが護る護王神社】

護王神社は狛犬の代わりに猪がいる。
和気清麻呂公が道鏡に逆恨みされて命を狙われた際に、猪が助けたという縁から、崇敬者が奉納したものらしい。
調神社の狛ウサギ、三峯神社の狛オオカミ、そしてここでは狛イノシシだ。

壁には宇佐八幡宮神託事件の物語が紙芝居形式で掲示されている。面白い


かつてお札になった和気清麻呂公
裏面は、なんとイノシシである
手水舎にも当たり前のようにイノシシがいる

本殿には菊の御紋が!!

そしてさらっと天皇陛下の幣帛料御下賜の文字が!!

皇統を護った和気清麻呂公だが、皇室もまた感謝を捧げて護ってこられたのだ。

【もともと高雄山の神護寺にあった護王神社】

現在の護王神社から北西の方角に高雄山が聳えている。
こちらの神護寺は和気清麻呂公が自ら開基した。そのため、和気清麻呂公の御霊は神護寺で「護法善神」と称された霊舎に祀られていた。

「え、寺は仏教なのに、何故神を祀るんですか?」と疑問に思われるかもしれないが、これは現代人の感覚で、明治以前の寺、神社には区別は無かった。例えば、あの石清水八幡宮を護ってきた田中家は、僧侶である。

1851年に孝明天皇が和気清麻呂公に正一位護王大明神の神階神号を授けられた。混乱する幕末に、かつて皇統を護った和気清麻呂公を大切にしようと思われたのではないか。
そして、明治天皇の勅命により明治19年(1886年)、中院家なかのいんけ邸宅跡の現在地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座した。

【和気清麻呂公の御霊を祀り、ゴジラと戦った重巡洋艦「高雄」】

帝国海軍には艦内神社があり、神棚を艦内に作り、神霊の加護を祈った。
例えば、戦艦「大和」は大和神社、戦艦「榛名」は榛名神社、重巡「那智」は熊野那智大社、重巡「足柄」は足柄神社のように、艦名と縁のある社から分霊わけみたま勧請かんじょうしている。

重巡洋艦「高雄」は、神護寺のある高雄山が艦名となっており、その縁から護王神社の分霊が勧請されている。
境内には、鉛筆艦船画家の菅野泰紀氏による高雄の絵画が奉納されていた。神助もあったのか、「高雄」は傷つきながらも戦後まで生き残っている。

高雄は昨年公開の「ゴジラー1.0マイナスワン」でかなり注目された。
自前の国防組織を持たない昭和22年の日本にゴジラが襲来する。
戦艦の中で唯一生き残った「長門」はアメリカの核実験で失われる。
戦艦12隻全てを失った日本の最大戦力はシンガポールから帰還する重巡洋艦「高雄」だ。
史実ではイギリス軍に鹵獲され自沈させられるが、祖国防衛のため戻ってくるのはフィクションとは言え胸が熱くなる。

そしてゴジラと接敵し、主人公の眼の前で真正面から戦いを挑むのである。

重巡洋艦ならではの高速と高い火力でゴジラと戦う勇姿は本当にかっこいい。ここは作品屈指の名場面だった。
不謹慎だが、和気清麻呂公の分霊を載せ、日本を護るために戦っているように見えた。

さぁ、護王神社を出て、最後の地は「晴明神社」
安倍晴明に憧れた野郎二人が、いま、会いにゆきます

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