シュルレアリスムとかいた日

 昨日、というとき。昨日ということは、今日の一日前だ。それは当たり前だとされるし、わたしもそうだなと思う。しかし、どうやって把握するのか。
 椅子がある、その向こうにランプが机の上。わたしたちはいうだろう、「椅子が机の上のランプよりも、わたしたちにちかい」と。もちろん、椅子が私の前なとき。
 それは簡単なことだ。わたしたちにはとても簡単なことだ。なにかとなにかの空間的位置を、一望のもとに、しうるなら。しかし、一望とは。
 わたしは、あるとき、団子を食った。そしてその次に、また同じ店や場所で団子を食った。
 AとBだ。A時点とB時点。それは、なぜ、前かあとか、わかるのだろうか。わたしは、時間の直線のようなものにたち、振り返るのだろうか。ああ、あそこに、A地点がある、そしてB地点は、もっと手前にある。だから、あれとあれは、あっちのほうが先なのだ…。というふうに。

 こんな推論はどこかおかしいと思う。
 わたしたちは、そんなふうにして、昨日というものを理解しているのか?そんな数直線のようなものに、わたしたちは立っているのか?そもそも、時間を数直線で書くのも一つのイメージだ。実は、点と点がジグザグでは、ないだろうか?
 といったことなどを思ったりした。いま書いていて思ったりした。深い意味は(本当に)ない。結論というものも別にはない。
 妹が、海外へ留学するという。ヨーロッパか、と思うとアジアである。彼女は、大層な勉強をするらしい。わたしは、外国語は、ろくすっぽ身につかない。しかし、そもそもわたしに、娘がいたろうか?娘、と、妹は違うものだ、なのに、わたしはつい言葉をうまく処理できない。
 悲しいことだと思う。
 わたしは、シュルレアリスムが好きなのだが、まあそれを読んでいる。つまり、シュルレアリスムの研究書を。シュルレアリスム、痙攣する複数性、みたいな。鈴木雅雄という人の本だ。
 大変面白いなと思う。わたしは、シュルレアリスムが子供の頃から好きだった。
 わたしは、それでちくま学芸文庫の『シュルレアリスムとはなにか?』を読んでいた。わたしは何十ぺんもそれを読んだのだと思う。
 そして、しかし、わたしは、詩が苦手だった。小学校の教師が、詩の暗唱を、金子みすゞとかをさせた。わたしは、嫌で仕方なかったろうか。しかし実は案外嬉しかったのか。それとも、その、両方ではないだろうか。

 わたしは、それで、最近にやってやっと詩を読んだ。三年前からだ。わたしは詩を読んだ。大岡信などだ。彼はシュルレアリスムに関係がある。しかし、どのような関係か。
 わたしは、学部の仏文科で、先輩に
「小説を書いてるんです」
といった。こう書くと、わたしは、なんだか、能動的にそういったかのようだ。しかし、わたしは、引力を感じた。だって大切な秘密だったのだから。

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