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仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル考察・解釈

これは復活のコアメダルに軸足を置いた本編全48話+復活のコアメダルの範囲内での考察・解釈です。
構造についての言及が主軸になっているため、構成や賛否に関しては言及を控えたものとなっています。

また、その性質上ネタバレを含みますのでご注意下さい。










1.自分をモノのように扱いたがるヒトと、自分をヒトのように扱いたがるモノ


仮面ライダーオーズにおいて火野映司とアンクは上記の構造における対比を深堀していくことで関係性を描写していき、物語の中でその在り方の解像度を上げていく作りとなっている。

二人は出会い、物語を歩んでいく中で多くの発見をし、大きな関わりを経て成長した面もあれば、環境が変わった事によって変容した価値観を獲得した面もあり、また、変わらない面も存在する。

両者のキャラクター性について、復活のコアメダルに軸足を置き、端的に解釈していきます。

火野映司:火野映司はヒトでありながら、自分をまるでモノであるかのように扱いたがる。重傷を負い、誰かに窘められても、彼は止まらないし、自分を止められない。物語の中で火野映司がどのように自分以外と関わるべきかは確かに変わったが、自分自身とどう関わっていくのか、自分をどう扱うのかは自分の中で変わってない

アンク:アンクはモノでありながら、自分をまるでヒトであるかのように扱いたがる。くすんだ世界の中、偶然知ることになった感触を頼りに彷徨う物体(メダルの塊)。ヒトとしての始まりと、ヒトとなっての終わりの境地でヒトを見たが、その過程となるヒトとしての生き方、ひいては人生についての観点は存在しない

両者に共通していることは「欠落」があることです。しかし、この作品では欠落があることは肯定的に描かれています。
10枚のコアメダルから1枚を抜いたことで作中テーマである欲望が生まれたように、キャラクターに欠落した面があることは、彼等が欲望と向き合い、折り合いをつけていく原動力にもなっているからです。

ここで考察の補助として、復活のコアメダルにて登場したグリードに関して次の段落で触れていきます。


2.グリード「ゴーダ」が立ち塞がり二人はそれを超えていく

2-1.ゴーダは人造のコアメダルという事

鴻上会長の解説や、王曰く、ゴーダは人造(≒紛い物)のコアメダルとの事であるが、800年前に錬金術師によって作られたコアメダルは人造では無いという事になる。これにおいて複数の仮説が立つ

仮説1.コアメダルを作った錬金術師はそもそも人間ではなく、現代において人間が作成したコアメダルは人が真似て作ったモノとみなし「人造」と言ったのか


→話の上ではあり得る事ではあるが、物語としての構造を加味すると、後述の仮定を読み進めていく方がより全体の構成が明確になるので考慮の優先度が下がる。

仮説2.本来の製法と異なるプロセスで作成されたのか。


→鴻上会長曰く、コアメダルの作成に火野映司の欲望のデータが必要だったという事を踏まえると、作成において相当量の欲望の強度が必要と分かる。

火野映司の存在の有無は800年前と明確に異なるため、その事実を指摘したのか。しかし、800年前に王の欲望によって誕生したコアメダルがある通り、コアメダルは作成に要求されるのは欲望そのもののみでその持ち主が誰かは問わないと思われる。

鴻上会長も作中で火野映司の巨大な欲望のデータを基にコアメダルは完成したと言っている。

が、ゴーダはその実験の過程で誕生した人造グリードとも言っているため、10枚のコアメダルとして存在している訳では無いととれる。

仮説3.コアメダル自体は本物ではあったが、グリードとしての条件に10枚から1枚を抜く過程が必要なのか。

→「人造の」という前置きをつける以上、有力だと判断するのがこの仮説。コアメダルがグリードと為して欲望を満たそうとするために必要なものは

「完成品を作成して、そこから欠落させること」

この仮説に対しては他の幹部のグリードと比較することでより明確になる。幹部のグリードは完全復活を目指していたが、ゴーダにおいては自己の完全復活を主眼においてはおらず火野映司の欲望そのものにフリーライドする形で刹那的に行動を決定していた。

以上の事から、主体的な欲望の方向性は存在しないが、とにかく何かやりたい。理由は自分がグリードだから。と、塩水を飲んで喉の渇きを潤おそうとしている状態にあった。

この「空っぽである」という部分において、ゴーダはかつての火野映司と同じ属性を有している。これは火野映司の欲望のデータから作成されてることに由来しており、このゴーダが持つ属性を否定することで、火野映司は物語の中で再度肯定されることとなる。

キャラクターとしては、欲望の追い方を間違えた存在として終始していく。
力をどれだけ持つかよりも、持っている力をどのように使っていくかが大事という作品の主張に対して失敗例からテーマを補強する役割を持っていた。

2-2.ゴーダは作中において、とにかく空っぽの存在として描かれていた。

ゴーダは極めてシステマチックに状況を追う自立したAIのような存在であり、極めて短い上映時間にも関わらずゴーダのディティールに演出を割いていたのは、ゴーダの持つ空虚さを鮮明にすることで、ゴーダを超えていく
火野映司とアンクを、ひいては火野映司とアンクの相互認識を間接的に描写するためだとも考えられる。

モノの中にアンクという輪郭があり、ヒトの中に火野映司の輪郭がある
「火野映司の記憶を持つゴーダ」という前提があるからこそ、ゴーダの端々に垣間見える上辺だけの所作が不気味に映像に映える効果があった。

火野映司はこの人たちにはこういう話し方をしていた。こういう笑顔で、飄々と。
火野映司はアンクにアイスをあげて機嫌をとっていた。(ゴーダはメダルなので冷たさを感じないから取っ手を持たない。)
火野映司は泉比奈がこういう状況の時こういう声をかけていた。「ヒナチャンニゲテ」と
火野映司はアンクと出会いこういうやり取りをした。事実として
火野映司はアンクと戦うときこうやっていた。言えば好きなメダルをくれた。

火野映司の記憶から機械的に観測し実行するゴーダに、記憶の中の火野映司が「何故」そこでその行動をとっていたかは理解できない。
それは彼がメダルというモノに過ぎず、火野映司とアンクの積み上げてきた関係性と対比された、徹底的に孤独で、完全に火野映司とアンクの関係性の外側にいる存在にすぎない事を表現している。

そして二人はこの空虚な存在を超えていく、タジャドルエタニティとなって

3.タジャドルエタニティ

タジャダルエタニティについて綴る前段階として、本編第48話におけるタジャドルコンボに言及する必要があるため先んじて解釈し、復活のコアメダルに言及していく。

3-1.最終話において変身したのは果たして誰であったのか

第48話において、アンクは暴走する直前の火野映司を止め、自身の人格コアを含めたコアメダルを渡し火野映司はタジャドルコンボによってアンクと共闘し、世界の崩壊を阻止した。
タジャドルエタニティはこのシーンと対比された構造になっている。

3-2.「求める」事で自分自身をモノとして縛りつけていたアンクは「与える」事でヒトとなろうとし「受け取ってもらう」事でヒトとなった

コアメダルはグリードにとっては命そのもの。存在の維持に際して重要な機関であり、ヒトであれば脳や心臓といった箇所に相当する。抽象的な表現も含めるのであれば「心」といってもいい。

それを自らの手で手離し、アンクは火野映司を救った。何故か。アンクにとっての火野映司の存在が、目の前で失われそうになっている火野映司に手を伸ばす行為が、それほどまでに大きなものになっていたからだ。


ただのメダルの塊が死ぬところまで来た。その根拠はこの行為に根差している。死ぬところまで来た事を理解するためには、生きていた事を自覚しなければならない。アンクはあの瞬間、タカ・クジャク・コンドルと声を上げ、モノからヒトに「変身」した。

3-3.アンクは火野映司との対話で自分の行った事の意味を再確認する

アンクは復活のコアメダル内において、火野映司に憑依し、精神世界で対面する。

そして開口一番に発したセリフは「なんで死んだ」だ。アンクにとってこれは疑問でもあり、答えは知った上での確認でもあった。
死んだ理由は火野映司に言われなくても知っている。自分があの時そうしたから、聞かなくてもわかっている。

このシーンの二人の会話は第48話において自身のメダルを火野映司に渡した瞬間の状況をミラーリングした上で改めて言語化されている。それによりアンクの当時の行動における背景を明らかにし、かつ火野映司の行動決定の判断経緯を明瞭にさせている。

「助けられるんだったら、手を伸ばすだろ?」

「なんでって…俺は、自分の一番したい事をしただけ」

二人は対面し、互いの輪郭をなぞる。

アンクは火野映司の選択を否定できない。なぜならアンクはかつて火野映司に対して同様の選択を行っているから。

アンクは火野映司から視線を逸らす。火野映司の選択を受け入れられないが否定もできない。しかし、向き合わなければならない。

アンクの目の前にいるのは火野映司であり、同時にかつての自分自身だからだ。


アンクの目から流れる涙は、極めて計算高く事態を自身の観測下に置くことに特化した「アンク」というキャラクターにとって最大の死角だったといえる。
色も味も感覚もない世界からの脱却で手に入ると思い描いていた理想と現実のギャップ。「命」を得る事の別の側面。

モノがヒトになったからこそ見落としていた事がそこにあった。

命を手にする事、生きる事は楽しい事や嬉しい事ばかりじゃない。メダルのように表があれば裏もある。喜びがあれば悲しみもあり、出会いがあれば別れもある。生きる事を獲得した以上、避けては通れない出会いと別れの境界線上にアンクは立っていることを知る。

アンクがヒトのように熱く熱く炎のように燃えていけばいくほど、火野映司はモノのように冷たく冷たく氷のように固まっていく構造において、二人が人間の感情を軸に反応し合うことは、そのままお互いのルーツを肯定し、同化することを示唆していた。

アンクはヒトとして命を持つことの酸いも甘いもここで知らされる。その反応を見た事で火野映司も、アンクがヒトの命を持って本当に蘇れたことを確認し、涙する。
こうして二人は禁断の果実を分け合い、同じ体験を共有した事で物語上において完全に同一化し、タジャドルエタニティに変身する。

「わかってる……お前がやれって言うなら、お前がホントにやりたいことなんだよな。」

「映司……わかった、それが……お前の願いなら…映司…いくぞ。」

本編第20話でも泉比奈の「お願い」には動かなかったが、その後の「取引」には応じたアンク。モノをモノたらしめる構造、ヒトがヒトたらしめる境界線、アンクは火野映司の願いを叶え、ヒトの二歩目を踏み出し歩き出す。

また、メダルのトスが無かったことにも物語の構造上は妥当である。メダルのトスは別個の存在があることで必要になる行為であり、物語上同一化したこの瞬間においてはトス行為そのものが関係性を正確に描写する際に不要になったからである。

先述の第48話における変身の解釈を踏まえるのであれば、アンクがモノからヒトへ変身したように火野映司もヒトからモノへ変身する対比となっている。

火野映司はタジャドルエタニティ、ひいては「永遠」に姿を変えたのだ。

二人はタカメダルの中で生と死を超越し永遠となった

4.極めて美しく何よりも残酷な結末である「永遠」

永遠そのものは事象であり、善悪の基準はない。
永遠となったから善かった、悪かったではなく、ただ永遠となっただけなのである。

また、主観が徹底的に排された観測は存在しない、従って死ぬことは悲しい事、生きる事は嬉しい事という見方も「生きている」「人間」の「一部」の考え方かもしれない。

見えた情報を見えた情報のまま自分の都合のいいように使い、コントロールするために扱うのであれば、それはゴーダと根底の部分では同じとも言える。

生きていて欲しかった、死んでしまうのは悲しい。という感情さえ、色も味もない世界から来たただのメダルの化け物が獲得した「味」の一つ。

最後、火野映司の瞳を閉ざすために手をのばしたアンクは、鋭い爪で火野映司を傷つけることの無いように、左手で覆いなおした。

アンクは知ることになる。目の前で冷たくなる火野映司に触れて抱いた感情は、アイスの冷たさを知った時の感情と対極にあることを。

アンクは知らなければいけない。知りたかったことに付随するものの正体を

この皮肉に対する表現としてラストシーンのアンクはシニカルに笑っていた。

4-1.生と死の先にさえ続いていく「無」と対極に位置する「永遠」

産まれる事を始まりとし、死ぬ事を終わりと定めるのは因果の連続の中の一つの区切りでしかない。
アンクという存在はモノとして生まれ、ヒトとして死ぬことで生と死の工程のピリオド部分を先行して獲得した事で、死ぬまでの過程がすっぽり抜け落ちたまま、今度は死の向こう側へピリオドの無い荒野を生きていかざるをえなくなった。

ピリオドの無い生きる行為、つまり死の無い生とは、色と味の無い世界、アンクの脱却したかった世界を再び追体験することと同義。

終わりがあると決まっているから「」欲望が存在しうるので、アンクはこれから答えのない荒野に、火野映司の遺志を込められたタカメダルという魂を持って人生を選択していくことになる。

ゲーテのファウスト的なようでもあるが、タカを象っているという意味では、モチーフとして使途ヨハネの物語をなぞっているととらえた方が適切なのかと思われる。

強引な言い方になってしまうかもしれないが、抽象化されたヨハネの像がダンテの神曲の物語をなぞっていくような結末。

5.紡がれていく火野映司の「腕」


その場その時の対象と、自身の肉体に対してのレート計算をしない火野映司にとって、意図的なモノであれ事故であれ寿命であれ、いつか必ず死を迎える。

従って、人間の肉体の持つ有限性の呪縛から解き放たれるという一点のみにおいて、この結末は救いの側面を持っているということでもある。

火野映司の意思によって火野映司が火野映司の有限性から脱却したという事実は、あらゆる他者の希望や願いを差し引いても火野映司は祝福されるからだ。

しかし、1のテーマに対し火野映司とアンクはそれぞれの答えに辿り着いたがそれぞれの望み通りの結末を迎えず(随所で妥協点を呑みこまざるをえない構成になっている)また、この結末は火野映司とアンク以外にとって望む結果では無かったという歪み

「都合のいい神様にしてはいけない」を踏まえた火野映司の有する「神聖」に対して描かれている超越的な指標

この「歪み」や「指標」はこの作品全体の後味になっており、視聴感に意見が割れる原因はここに集約してると考察する。

かつて無の欲望の最中にあった火野映司がアンクという存在を通して辿り着いた、無と対極に位置する永遠という形。
永遠そのものに明確な形は無いとなれど、永遠をかたどった円環の象徴となるメダルが、ひび割れていた状態から他ならぬ火野映司の願いによって復活したという物語的着地。

仮面ライダーオーズ火野映司の遺志は手を伸ばして救った誰かが、また誰かと手を繋ぎ、また誰かへ…と紡がれていく。

その行為は時間や空間を超え、救いを紡いでいくことで永遠になる隣人愛(アガペー)の体現と解釈し、終了いたします。

ありがとうございました。

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