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パリ ゲイ術体験記 vol.27 「北アフリカ羊物語」続編

ある秋の中頃、私が当時暮らしていたチュニジアでは犠牲祭で盛り上がっていた。
犠牲祭はラマダンが明けた直後と約2ヶ月後の2回行われる大事な祝い事で、日本でいうならば盆や正月みたいなものであろうか。ラマダンの実施時期は毎年10日ほど前倒しで移動していくので、犠牲祭の日も自動的に毎年日付けが違ってくる。
それは、主に各家々で生きた羊を丸ごと買って捌いて食べる、家庭内でのお祭りのようである。
もともと私は羊肉が大の大の大嫌いで、辺りの家という家の敷地から羊を焼く煙が上がっている犠牲祭の原風景を見ただけで実際に喘息が出るというレベルで、かなりきつい。
羊バーベキューの臭いのしない場所に避難しようとしても、何処に行っても空襲や大地震で壊滅した後の火災で燻った煙の中にいるようで、避けるのも困難を極める。
そして祭は2-3日間続く。

犠牲祭が終わった数日後、私は友人(正確には片想いの同性)の肉屋のモハメッドから呼び出されて出かけた。
店に行くと子羊1頭が乗っているミニトラックの荷台に私を乗せて、何処へ行くとの説明もなくモハメッドは車を走らせる。
同乗の子羊は大人の羊と違って、鳴き声も可愛くてなかなか優しげな動物である。皿にのって出てくる羊肉は嫌だけれど、これならば犬や猫と同じように微笑ましい感覚で触れていられる。

まさかこのまま40kmも走って、羊100頭もいる自分の牧場に連れて行くんじゃないだろうな..と嫌な予感がしだしたところで、車は町はずれの小さな空き地に入って停まった。
そこで子羊ちゃんと私は荷台から降ろされて、モハメッドは何やら準備をしはじめている。
「のりタマ、犠牲祭の時は我が家では親戚一同が集まって何十名にもなったから、君を招きたかったのに迎えに行く時間すらなかったんだよ。
だから、今日はのりタマだけの為に犠牲祭をプレゼントするからさ」….というセリフを聞いた途端に私は血の気が引いた。
足下で「メヘへーッ」と小さく鳴く子羊を蒼くなって見つめ直した。
モハメッドは私の手に鋭いナイフを握らせたと思いきや、「のりタマがやるんだぞ!」と首もとをかっ捌くゼスチャーをしてみせるのだが、いくら愛しのモハメッドからのお達しといえど、我が動物好きには無茶ぶりの域をはるかに超えている。
「冗談だよね..?これは何かの罰ゲーム??」と返す言葉も声にならない。
「羊はちゃんと押さえておくから、喉の下を切って血を全部出すだけでいい。後は僕の仕事さ」

どんな条件を出されようと出来ないと断り続ける私を呆れたように見ていたモハメッドは、いとも簡単に喉を切り開いて吹き出る血をバケツに貯めている …
世の女性は毎月やってくる生理で大量の血液に見慣れているだろうが、男はそれにかなり弱いと思う。
私などは、健康診断での採血で注射器に入る自分の血液を見る事すら避ける程であるから。
羊の大方の血が外に出たら、脚から吊るされた羊の毛皮をサーッと瞬く間に剥いでしまった。
ついさっきまで荷台の上で遊んでいた幼気な子羊が、今は丸裸にされて逆さにぶらさがっている。
とっくに息はない筈なのに、羊の筋肉は痛いとまだ感じているかの如くに定期的に大きく痙攣しているではないか。

どれくらいの時間が経ったのだろうか。
気がついたら、子羊は目玉から脚の先まで全て分解されていて、私はさらに顔面蒼白で言葉無し。

羊の喉切りを断ったせいか、気にくわない顔をしていたモハメッドだったが、拒む私にその羊全部を無理やり私に持たせて帰した。
こんなにも欲しくなく重すぎる贈り物を貰ったのは、生涯初で生涯中最悪まちがいなし。
本当は毛一本すら持ち帰りたくないと思ったが、犠牲祭の羊は彼らにとって聖なるものであると聞いていたし、決して安くはない子羊丸ごとを贈ってくれたモハメッドの厚意も慮らなくてはならない。
まず何よりも、つい今まで命が入っていたものである…
呪いの品を抱えた気分の私は、これをどうしたものかと考えあぐねた結果、ことの顛末を聞いて爆笑している友人のチュニジア人大家族に丸ごと引き取ってもらうことに。

この出来事以来、他所のお宅にお招きを受ける時には羊だけ(あ、ウサギちゃんもだった..)は絶対に食べれませんと予告し、レストランでランチでもする際には日替わり定食お品書きに羊の文字がないかを必ず確認する。

羊恐怖症。
これが、北アフリカから持ち帰った唯一の確かな土産である。



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