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親指を切れますか?

 あるとき、友だちと炬燵でぬくぬくと温まって談笑していた。隙間風が背中を冷やして心地よかった。あつい、つめたいってやつ。
 ふと友だちが言った。ひとりごとではなく、あきらかな対話の意思をもって。

利き手の親指を天秤にのせてさ、つりあう重さってなに?

 そりゃ人によってちがうだろう。成人の心臓が121gなのとはわけがちがうし、121gなのかもわからないし、people in the boxの曲で知っただけだし、そもそもそんな話はしていないし。友だちが、一般的にっていう感じで言ってきたから、ちょっと混乱したのだった。

「さあ、おまえは?」
「むずかしいなあ」

 友だちはほんとうにこたえにくそうだった。あたりまえだよ、こたえにくいから訊きかえしたんだし、おまえもそれを望んでいた。


 家族、恋人、友人...…ありていな回答が、力をもたなかった。利き手の親指ほどの重さがどこにあるのか、わからなかったのだ。誰かをとっさに救けようとした勢いで指がちぎれるなんてこと万に一つはあるかもしれないけど、それはこっちの欲望が麻痺してついジャンプしちゃっただけかもしれない。閻魔の前で、おまえの右手の親指とこの者どちら? なんて試されたら、わからなかった。それでもぎりぎり「大切な人」を選べるかもしれない。でもそれは、自分のエゴを仮死に追いこんでなんとか迎えた、偽りのtrue endだ。安易に選べば、あとで絶望することになるかもしれない。なぜわたしは自分に正直であれなかったのか、と。
 とっさに誰かを救けたときに親指がはじけとんだとして、どうして訴追できるだろうーー君の命のためにわたしの親指がなくなりました、どうしましょう? ーー相手は言うーーほんとうにありがとうございますーーこうしてコミュニケーションはねじれる。どうにもならない非対称性があらわれて、まるでわたしたちははじめから空白に語りかけ、ただ自分のエゴの醜さを突きつけられていたかのようだ。他人の目は空っぽだ。空っぽでないなら、それは相手の存在を脅かさない空白のテーマについて、なごやかなキャッチボールをしているときだ。


「おまえには音楽があるだろう」

 友だちに言った。友だちはそうかあ、とかえした。友だちは音楽を愛していた。こっちにはまるで理解の及ばない音の羅列を信じて、休学して、悩みうめいていた。音を憎んでいた。淡淡と、音を世界とのメディアにして、呼吸していた。



 どうだろう、親指とは要するに躰のなかでも意志とのつながりがあきらかな部位だ。そして躰というテリトリー、世界とのメディアは、少なくとも日常的には、他者じゃない。自分の躰は空白じゃない。だからきっと、親指はやさしい。友人よりも、恋人よりも、父よりも、母よりも。親指には狡猾なエゴがないから、こちらから注入できる。そして、スマホをきちんと操作させてくれる、ありがとう親指。だからわたしは親指に執着する。
 親指を切るというのは、プライオリティの話じゃない。きっと執着をはかる指標として、わたしたち2人は直観した。躰のなかでもわりと特別な部位の重みが、<好き>の重みと天秤にかけられた。その<好き>は友愛とも性愛とも親愛ともちがう、独特の重たさをもってわたしたちの執着を刺激した。愛は業をこえることがあって、それはとても美しい。ただ愛はコミュニケーションにかんする至上の理なんかじゃない。別のやり方もある。


「音楽はたしかにそうかもなあ」
「そうだよ」
「おまえはどうなん?」
 わたしはこたえられなかった。

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