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『理のスケッチ』感想

普段はエロゲ―批評空間に感想を投稿しているが、スクショ無しで説明するのが困難だったので長文感想はこちらを使おうと思う。
しかしこのゲームを扱っている記事のいくつかを拝見するとあまりスクショをペタペタ貼っておらず、
単に私の哲学的な素養が浅く作品の理解が追い付いていないということなのかもしれない。
実際、作中の学術面での言及に対して私は話の広げようがなく、無力だ。


『理のスケッチ』は主人公の河原瑛雄とヒロインの野崎英理が些細なきっかけで屋上で出会うという一般的なボーイミーツガールの幕開けから始まるノベルゲームだ。
もっとも、ゲームとしての体験は決して一般的なものではない。
英理は屋上を根城に読書に耽る孤独な女子高生で、
あるとき読み進めていたトーマス・マンの『魔の山』を紛失してしまう。
瑛雄がそれを拾うことから二人の関係は動き出し、
その深まりには「本」の存在が大きく関わってくる。
瑛雄は英理の深い思想に感化され、自らも読書をするようになる。
彼には幼少期のトラウマがあり、
その苦悩の解決の一端を彼女と本に見出していた。
今日日大学生でも読まないんじゃないかというような書物の数々に裏打ちされた考え方をする英理との対話はバチバチに専門的な用語の飛び交う本格的な議論で、過度に冗長なテキストと相まってかなり特異な印象を受ける。
日常における疑問に書物の記述を引用しながら解答を求めていく様は、
教科書の片隅に載っている会話調のコラムを読んでいるような錯覚すら起こすほど教育的な光景だ。


もっとも、
英理は作者の知識をひけらかすための舞台装置に過ぎないということではない。
きちんと魅力がある。

「時間が主観的ならもうちょっと話せてたのにね。」斬新な別れの挨拶だ

オタクくんはやはり博学な女性がまれに見せる親密な態度というのに弱いのだと私は思うが、どうだろうか。
私は彼女の発するセリフに脳内で早見沙織の声を当てながら読んだ。
声無しノベルゲーは脳内CVの解釈が自分の中で確定した瞬間からフルボイスを超えてくる。

さて、いくつかのレビューや記事では前半部分の哲学論議が難解すぎて脱落者が出かねないという意見が見られたが、
私はそうではないと思う。
まず難解なのは文章であって内容ではない。
作中で持ち出される概念はつぶさに説明がされる。
専門書ならもっと手短で簡素に済ませているであろう記述にかなりの文字数を割いている。用意されている例示や比喩も丁寧過ぎるくらいだ。
これは先ほど言った”教科書的”な印象に拍車をかけていると思うし、
元々冗長気味であるテキストをさらに長くもしている。

比較的定番と言えるクオリアの話題だがしっかり説明する。丁寧すぎて却ってわかりにくくしているかもしれない

つまり脱落者が出るとすれば理解の困難度ではなく文章の長さに耐えられない可能性の方が高い。
もちろんそのことも複数のレビュワーは指摘している。
もっとも、私はこのくらい手厚く書いてもらった方が哲学に疎い人間は手に取りやすいんではないかと思う。
このゲームが解説している哲学の内容は割とすんなり入ってくるが、
逆に解説や考察をしている記事のさらに踏み込んだ内容が私にはまともに頭に入ってこなかったからだ。
ただし、意味が明確に一意ではなく読み取りにくい文章や、
意味を逆に取り違えているような単語の使い方、
恐らく助詞をミスっているであろう箇所が結構な頻度で出現するため、
必ずしも平易であるとも言えない。

そもそも、提示された内容を全て飲み込めないことが問題になるシナリオではない。
ネタバレを言ってしまうと、後半部からは野崎英理の極めて個人的な苦悩=自殺願望の解決がメインテーマであり、
誰にでも理解できるものを扱い始めるし、
哲学の話もあまりしなくなるからだ。
前半部の議論はそこに至るためのフックや前置きの意味合いが強い。
英理の暗部が議論の端々に垣間見える。

↓に続く
「親ガチャ」は無限に責任が転嫁され続けるという論理は2017年発表という時期を考えるとだいぶ鋭利だ


英理が自殺願望に近しい何かを抱えているということを事前に読み取るのは十分に可能であると考える。
読者は徐々にシナリオが彼女を救済する話であるということを飲み込めてくる。
この塩梅が非常に重要だ。
仮に「自殺願望を持つヒロインを救うボーイミーツガール」というストーリーの組み立てを考えるとして、
現実社会でも他者に打ち明ける・理解を得るのが極めて困難なそうした感情を主人公/読者に自然に開示するためには何らかの処置が必要である。
同情や共感を得やすくするためのクッションとして悲しき過去を明かしておくというのは最も安直で瞬時に思い浮かぶ手段だろう。
「私は死にたいのです」
これをいかに相手にドン引きさせずに、
切実な問題として受け止めてもらえるかということだ。
そうしたジレンマは作中のセリフでも言及される。

「なんでも相談して」と言われて「なんでもってどこまで?」と逡巡する思春期にありがちな感情をよく射抜いている。


しかし読み進めていくと、
英理がそうした願望を持つに至った経緯自体は客観的に見て非常にありふれた出来事のように見える。
主な要因としては苛烈な教育ママと無関心な父親という典型的なアダルトチルドレン養成環境である家庭内の問題があり、
学校での人間関係の失敗も重なり、
他者への無関心が進行していたという説明がされる。
自殺を決意する動機として妥当と思わせるほどの悲惨さではない。
では、英理は大袈裟な悲嘆にくれているのかと言えばそうにも見えない。
体験そのものは凡庸だとしても、
彼女を蝕んでいる孤独は非常に切実さを帯びている。


英理自身もまた自身の境遇に関わる問題が矮小なことに自覚的でいる。

ノベルゲームで陰鬱なシャワーシーンをやるのは結構珍しいと思う。


それでもなお悲観をやめられないというのであれば、
その苦悩は真だと言えるのではないだろうか。
体験の大きさではなくあくまで当人がどう感じたのかに重きを置く態度は非常に好感が持てた。
同様の家庭内モラハラを扱ったゲームは
『Analogue: A Hate Story』や『親愛なる孤独と苦悩へ』があるが、
どちらも親の言動が本当にカスで、
被害者のネガティブな行動を正当化してしまう露悪性を帯びている。
一方で本作は敢えてありがちな範囲内の出来事に収めた上で
苦痛を受けた側を内省させ、
苦しみと自己批判で板挟みにさせている。
そのジレンマは人間が容易に持ちうる普遍性があるから、
読者は共感しやすいのではないだろうか。
そういう話を抜きにしても安直に毒親を舞台装置化しなかったのは本当に良い判断だと思う。これは単に私が毒親に頼った作劇が嫌いというだけだが……。

ついに自殺を決意した英理だが瑛雄による説得で思い留まり、決着する。
この辺は典型的なボーイミーツガールの幕締めでこれといって特筆するものも無いが、これまでスケールの小さい問題に焦点を当て続けたことである程度妥当性のあるエンディングにはなっていると思う。
むしろ、ほとんど二者の対話に終始し多少横やりが入るだけの展開できちんとしたプロットを形成しているのが凄いんじゃないだろうか。
時折神視点のテキストに切り替わってくどくどと説明を始めたり瑛雄の親友が完全にデウスエクスマキナであったりと見過ごせない欠点もあるにしても。

とにかく前半部分のテキストの異様さに特色のあるゲームで、
後半からは野崎英理を好きになれないとキツいところもあると思うが、
このゲームによって得られる栄養素を渇望している人間はどこかにいると思う。

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