走馬灯についての考察
小さい頃幽霊を見た。
弟の妊娠で母が入院していて、祖母の家に預けられていた時なので、5歳くらいだったと思う。その日は祖母が買い物に出ていて、ひとりで留守番をしていた。
小一時間経った頃だろうか、襖の奥、障子越しに祖母がゆっくりと歩いて行く影が見えた。襖は子供が開けるには重かったので、玄関に向かっていき、遠回りしながら、「おばあちゃん!おかえり!」と走って追いかける。
祖母が歩く廊下の先は物置に繋がっていて、他には何もない。廊下をサーッと滑って、ワクワクしながら物置の戸を開けた。
物置には、誰もいなかった。
瞬間、恐怖で足がすくんでしまい、その場にヘタレ込み、震えて泣いた。
しばらくすると祖母が帰ってきた。
祖母にその出来事を泣きながら話したが、「オバケでも出たんかね?」とケラケラ笑うだけで全く相手にされなかった。
時が経って祖父の葬式の際、その事をふと思い出し、母と弟に初めてその話をしてみた。
全員が同じ体験をしていた。
ただ、その時もまだ半信半疑のまま、「この家にはお化けが住み着いているんだね」くらいの呑気な笑い話で終わった。
その後、母に癌が見つかった。発見が遅れてしまい、見つかった時には既に末期だった。
元々精神的に脆い部分があったので、徐々に気が触れてしまった。
抗がん剤の副作用もあり、元々若々しかった母の面影は無くなっていた。
結局母は耐えられなくなって、自死してしまう。
場所はあの物置部屋だった。
慌ただしく葬儀を終え、一息ついた時にふと思う。
もしかしたら自分たちが見た幽霊は母だったんじゃないだろうか。
人は死の直前に走馬灯を見るというが、それは頭の中で起こっているのではなく、死に直面した人の霊魂のようなものが、時間を遡って現れるのではないだろうか。
自分たちが見たものは母の未来の姿だったのではないだろうか。
弟にその説を話してみたが、「兄貴までおかしくなったら俺はもう」と俯いた。
ごめんと謝り、もうその話はしなかった。
でも、今でも僕は自分のその説を信じている部分がある。
人は死ぬ時に時間を遡る事が出来て、楽しかった時を見に行く事が出来るんじゃないだろうか。
死は誰にでもやがてやって来るが、死の瞬間でその人が可哀想だったとか幸せだったとか思ってしまうのは、その人にとっても不本意であって、その人が歩んできた人生は死に方で判断出来るものでは無い。
死の直前にその人が愛した時間を好きなだけ楽しんでいるのが、幽霊だったり、走馬灯だったりすると思うと、少しだけ死を前向きに考える事が出来る気がしている。